ゲームを趣味にして普通に働いて暮らすという幻想

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社会人になったら
出世なんてしなくて良いから仕事は定時に帰り、家に仕事を持ち帰らない。
そして世間体なんて気にせずゲームを趣味にして暮らせたら良いな。

これは僕の社会に出る前の考え方であり、夢でもありました。

しかし、現実は違いました。

これからの話は、同じ社会人でも当てはまる方とそうでない方がいると思いますが、今から話す自分のような例はそれほど珍しくないと思っています。そして、本ブログの目的である、「ゲームが好きだけど社会人になったらできなくなった。」そんな方のために書きたいと思います。

長いので3行でまとめると
1.ゲームを趣味にしよう
2.時間的、精神的に辛かった
3.考え方を変えるとできるようになった

結論のみ知りたい方は”僕なりの結論”をご覧ください。

僕の理想は最初に書いた通りです。

読まれた方で、『そんなに世の中甘くないよ』、『やる気のない奴だな』
と思われた方はいると思います。

それでも、昨今仕事よりも家庭や趣味など自分の時間、友人・家族との時間を大切にする価値観は珍しくないと思います。また、経済成長が停滞した社会の閉塞感に大きな夢なんて持てないという人も多いのではないでしょうか。

<参考書籍:リンダグラットン.『ワークシフト』、平田オリザ.『分かり合えないことから』等>

僕もそのような考え方であり、仕事に対してやる気があるとはとても言えませんでした(本来どれだけやる気を持つべきかは分かりませんが)。それにゲームを趣味にするなんてささやかなことだと思っていました。

社会人の現実

まず、仕事の内容によって“現実”は大きく異なると思います。

仕事の内容を説明しないとどの角度から物を言っているのか分からないと思いますので、恥ずかしながら少々紹介させて下さい。

僕の場合は、基本業務は定時で収まる範囲内であり(すべてではありません)、労働時間外に働かなくても会社(経営)は回ります。会社の将来性は別の話ですが。

ただし、特殊なこともあり、
常にスキルアップが求められる
課題が課される(これは受け身の場合もあれば、自主的に探す場合もありますが、課題のクリア数が将来を左右します)
そして、拒めば疎外される(当然と言えば当然ですが)

この現実の中で、
『定時で帰るなんてやる気がないのか』『残業しないと出世できないぞ』
と言われてきました。

仕事も質の高いものを求められるので、適当にやっているわけにはいきません。

また、課題をこなすためには、残業せざるを得ません。課題を抱える時期は、20時や21時まで残業したり、休日に家か職場でやるという事も少なくありません。

ゲームはどうなったか

就職後は前述のような考え方でしたので、定時に帰り、課題もなるべく避けてきました。
そして、約1、2年ほどは趣味のゲームにたっぷり時間を費やしました。

動画の編集能力はこの頃に身に着けました。

その結果は想像に難くありませんが、仕事のスキルはイマイチで同僚からもすっかり『やる気のない奴』というレッテルを貼られていました。

そうなると、仕事自体でも、人間関係でも上手く行かず落ち込む日々が続きました。

※「コミュニケーション能力」不足から招いた辛い現実は別記事に書きました。

もちろん私生活にも影響があり、ゲームをしても充実感を得られず、ゲームに対して価値を見出せなくなりました。

『社会人になってゲームをしなくなった』という話はよく聞きますが、理由としては仕事・家庭の忙しさによるものや精神的にゲームを楽しむ余裕がなくなるというものがあるんじゃないでしょうか。

僕もゲームをやめるべきか悩みました。

理想とのギャップ

そもそも、何が間違っていたんでしょうか。

「仕事に人生を捧げなくてはいけないのか?」
「社会的価値の低い・実用的じゃない趣味を持つのが間違いだったのか?」

学校ではみんな自由だと習い、人それぞれの個性を尊重するべきだと教わってきました。
また、人は生まれながらにして、自由で平等な権利を与えられていると基本的人権に書いてあると。

「人は無限の可能性がある」なんてよく言ったもんです。

社会でも、多数派の価値観に縛られない主人公が活躍するドラマや自由な価値観を謳う歌が流行しています。

僕もすっかり、自由な生活は尊重される・許されるべき。仕事なんて最低限の責任を果たせば強制される筋合いなんてない。と考えてきました。

幻想

しかし自由や平等というのは“幻想”であることを最近になってようやく気づきました。

きっかけは賢人たちの書籍を読んだことです。

自由というのは、弱者が強者に抗うためのスローガンであり、
平等というのは、貧富の差に目隠しをするための方便です。

実際は、歴然とした能力の差、貧富の差、地位の差が存在しており、その綻びが社会問題として露呈しています。

だから、「年上だから、上司だからって偉そうに」「なんであいつばっかり良い目にあってるんだ」「なんで性格でひいきされるんだ」「自由にさせろ!」「不平等だ!」という”思い”は一度省みてみると実は自分の考え方が現代の流行りの価値観に洗脳された幻想である可能性があります。

野生の世界を想像してみると分かりやすいですが、強い(能力や地位がある)者、集団の役に立つ特性を持つ者が有利に決まっています。

じゃあ、能力の差、生まれた環境の差を認めて諦めて生きるべきかと言うとそうではありません。

ここで、僕が最も衝撃を受けた言葉を紹介します。

そもそも、純粋に科学的な見地から見ると

人々が人生に認める意義は、いかなるものもたんなる妄想に過ぎない。
<引用元:ユヴァル・ノア・ハラリ.サピエンス全史>(補足)

これだけを読むと、『そんなこと言ったら生きてる意味ないじゃん』と思うかもしれませんが、僕のように”追い詰められた”人にとっては救いの言葉となりました。

なぜなら、仮に人生の意義を確信しているのなら捨てるのは難しいですが、何もないのなら本当に大切にしたい価値観をよりどりみどり、自分で決めて良いのです。

「ゲームの世界なんて空想じゃん」と言うのと同じくらい世界の多くの人が抱く”人生の意味”は空想に過ぎないのです。

社畜になる必要は決してありませんが、仕事をおろそかにして自由に好きなことすれば良いというのは幻想に囚われた考え方でしょう。

反対に、社会人はプライベート(家庭や趣味)をないがしろにしてまで仕事を優先すべきだという考え方も幻想であり、真に受ける必要はありません。仕事に生きる意味をこじつけるというのは、人を使う側(政治家や経営者)に都合が良いのでもてはやされているんじゃないでしょうか。

僕なりの結論

仕事

社会人は仕事に全身全霊を捧げて生きるべきという「労働至上主義」的な考えは時代遅れの価値観であり、”仕事の成功”自体は何の意味もありません。例えば、自分の能力が上がることに意味はあっても出世すること自体は何の意味もありません。

けれど、仕事自体(職業)の存在意義を考えたときに自分と社会のためになる部分はあるはずです。自分の仕事の「他人に貢献する」という社会的役割は人間の素晴らしい美徳であり、僕が働く意義にしようと決めました。

「ありがとう」と言われたときは最高に救われた気持ちになります。

また、仕事は確かに残業が多く、ホワイト企業ではありませんが、課題は自分を成長させてくれる挑戦だと考えて前向きに取り組むようになりました。しかし、出世争いや社会的意味を見出せない仕事(仕事のための仕事)には興味がないので、本当にやるべきなのか自分の働く意義と照らし合わせて考えるようにしています。

そもそもこんなに悩む羽目になったのは、労働者の善意(サービス残業)にあぐらをかいてきた日本社会の問題がありますよね。

趣味

スポーツであれ、芸術であれ、娯楽であれ現在与えられた宗教的、社会的意味は人間の後付けであり、趣味に優劣はありません。

僕がゲームで感じる「高揚感、緊張感、冴えた感じ、成長感」は(感情であれ、脳内の電気信号であれ)本物であり自分の特性であり、それが発揮されているのなら有意義だと考えました。

むしろ、これから人生100年時代、自分を殺して生きるというのは無意味なんじゃないでしょうか。
「働かなくなったら、何も残っていなかった」ということになりかねません。

ゲームは趣味にする価値があるということは『ビデオゲームの美学』レビューで書きました。

総合

仮に将来社会の価値観が一変したとしてもAIに”仕事や思考”を奪われたとしても、自分の能力はなくならないので、「自己成長」は裏切りません。仕事での技術や知識はもちろん思考力・洞察力・表現力を磨くことは生きる力になります。

結論として、「仕事を頑張ることで自己成長し、同時に社会的役割を果たすことで意義を感じ、趣味のゲームでも楽しみながら相乗効果で自己成長する」というのが現在の目標です。

※ゲームブログで自己成長するという内容を別記事で書きました。

さいごに

もし過去に戻れたら本記事に書いたことを、就職後の自分に「お前全然わかってないよ」と教えてやりたくなります。

このブログを始めた理由は、僕のように苦しんだ人の力になればというところにあります。

働いていても、忙しくてもゲームを趣味にしても良いんじゃないでしょうか。

誰かのお役に立てれば幸いです。


文中ユヴァル・ノア・ハラリ氏の言葉を借りましたが、文字面だけ見ると現実との距離感を感じた方やスピリチュアルな印象を受けた方がいらっしゃると思います。

実際は科学的根拠に基づいて、人間の虚構(幻想)の歴史を分析し、私たちが”現実”とするものをつまびらかにするとともに警鐘を鳴らしています。

僕が本記事の見解に至ったのは、彼の”言葉ひとつ”からではなく、これまで読んだビジネス書、社会学、心理学、哲学などの多くの書籍から得られた知識の集大成です。

書籍を通して“人生”というものを大局的に見ることで、自分をがんじがらめにしている固定観念を打ち破り悩んでいたことが実は誤りだったと気づくことができます。

なので、『価値観の転換をしたい』そう思われる方のために、本記事を書くのに糧になったであろう書籍を紹介します。

【参考書籍】