「ゼノギアス」レビュー~運命を克服する力~(未プレイの方も読めます)

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皆さん、「こんなゲームがあったらいいな」という理想のゲームはありますか。僕にとってそれがゼノギアスでした。

 

巨人の肩の上で書いたような、知識、洞察を詰め込んだ作品。

ゼノギアスは1998年に初代PlayStation用ソフトとしてスクウェア(現スクウェア・エニックス)より発売された作品であり、ゼノサーガやゼノブレイドを生んだ高橋哲哉監督のゼノシリーズの初作品である。

本作の魅力としては、壮大なストーリー、複雑な設定、コマンド派生式のバトルシステム、ユーモラスなセリフと演出、ロボット、カメラワーク、音楽など枚挙にいとまがない。

 

これらの膨大な魅力がある中で、最も感銘を受けたことだけを述べたい。

ゼノギアスがくれた運命超克の力だ。

 

拙著では、高橋監督の提示する哲学、運命の転換、ゲーム体験の観点からいかに運命超克の力をプレイヤーにもたらしてくれるのかを解説する。

 

僕は本作の提示する哲学が好きだ。

ゼノギアスは語る。登場人物の信念をときには凄まじくくじくことで、問答させることで、語りかけることで。

ひとつだけ例を挙げたい。僕が最も惚れたのは神と宗教の提示だ。

本作では神を3つのレベルで描いている。

1つ目はまやかしとして扱うレベル。「神だって?そんなものがどこにいるっていうんだい?」と吐き捨てられるもの。

2つ目は創造主、絶対者、キリスト教で言うところのイエスであり、それを事実として扱うレベル。

3つ目は内なる神。このレベルの神は劇中に何度か表れる。

この神はプレイ以前には僕の中に存在しなかった。

 

劇中、神の存在がまやかしであると知り絶望した青年にその父親が言う。

「本当の神や信仰は(中略)自分自身の中に見出すものだ。語らざるもの表現され得ざるものそれが神なんじゃないのか?」

 

もしかすると本作プレイヤーの中では珍しいかも知れないが、僕はこのセリフにハッとさせられた。

不信心な僕は神を信じていない。受験のときでさえ時間の無駄だからと合格祈願に行く親の誘いを断ったほどだ。

幼い頃にサンタクロースがいないことを知ったように、それよりやや遅れて、論理的に神がいないことを知り、「どうせ神様なんていない」と物知り顔になった経験はないだろうか。僕はそうだが、神がいるかいないか論で終結していた自分の浅はかさを思い知った。

 

このセリフから人がなぜ神を創り信仰してきたか、その意味に触れた気がした。

信仰は集団を統率する道具という味気ない側面を確かに劇中で体験する。一方で、大切なモノを多くのヒトと分かち合うことができる言わば人々の集合的な意識の表れでもある。

 

もしあなたの目の前で憎くて仕方がない人間が危機にさらされているとき、あなたの内なる神はそれでも助けろと言うかも知れない。

 

高橋監督の宗教描写と言えば、本作の開幕で繰り出される一文が多くのプレイヤーの脳天に焼き付いていることだろう。

さらには、後年に制作されたゼノサーガにおいても目を引く。ゼノサーガの公式設定資料中のインタビュー中で、幼少期の環境から宗教に対して興味を持ち研究したと書かれている。

しかし、高橋監督の洞察の深さは宗教だけではとどまらない。

自己とは、人とは、愛とは、自由とは、などこの深みに引けを取らない哲学が、随所に表現されている。

ゼノギアスの公式設定資料中では、血のつながり、医療倫理などの現代の問題に対し問題提起をしたと書かれているが、根幹にはプレイヤーへのエールがあるように思えてならない。

その理由を本作の特徴である運命の転換で見ていく。

 

運命とは何だろうか。デジタル大辞泉では、「人間の意志を超越して人に幸、不幸を与える力。また、その力によってめぐってくる幸、不幸のめぐりあわせ。運。」とある。なるほど、知能レベルが天文学的に低い僕にはよくわからない。

では、運命が変わると言うとき、何が変わるのか。その人を取り巻く生活、所属集団や地位などの社会的環境、生まれ育ちや出会いなどの人間関係、そしてその人個人の主観的な世界の見通し。よって、ここでは運命を境遇と同義に扱い、カッコつけたいときには運命と表現する。

 

ゼノギアスでは運命が変わる。

まあ、登場人物の運命が変わること自体は、RPGでは日常茶飯事だ。そうでなくては話にならない。

 

現実で運命が変わると言うと、環境が変わることを指す場合が多い。

例えば、出会いと別れだろうか。

もうひとつ、認識が変わることで当人から見た人生観や世界観が変わる場合。つまり実際には環境は変わっていないが、当人からすると変わったように見えるというもの。

このスキャンダル発覚型は、さきほどの神の例で述べた、信じていた神がいないことを知ったときなどがそうだ。

つまり、運命は物理的な変化がなくとも、その人が抱く世界のイメージが変わることでも転換する。

そんな世界の見方を変える体験を登場人物とプレイヤーは何度となく味わう。ゼノギアスはスキャンダルの嵐だ。

 

自分と無関係なスキャンダルなら対岸の火事だが、自分のアイデンティティに関わるものであれば一大事だ。

アイデンティティを構成する境遇。

生まれ育ち。人種。組織。国家。信仰。イデオロギー。地位・身分。

僕たちはこれらを自分の一部と思って生きている。しかし、その根底が崩れたらどうだろう。

所属している組織の行為が自分の信念に反していたら。イデオロギーが誰かに植え付けられたものだったら。そもそも、そんなものなかったとしたら。

 

「生きている価値」、「自分の居場所」という言葉が劇中で現れる。

家族、仲間、貢献しがいのある組織や社会。

心の寄って立つ場所を失ったとき、足場を失い宙ぶらりんになったとき、人はまともでいられるだろうか。

 

逆境に対する態度としては、信じない。事実を認めないことで自分を守るというものや、世界を呪う。自分の大切なモノを奪った世界の破滅を願うというものがある。

ただただ目先の生と欲望にしがみつき、流されるように生きるかもしれない。

絶望し、身動きがとれなくなってしまうかもしれない。

 

本作を遊んだプレイヤーはゼノギアスの世界を体験し、運命に対するさまざまな態度を見て学ぶ。それは、主人公と仲間だけではなく、敵もまた一段と良い役を演じるので、記憶に残るシーンは敵が見せてくれることも多かった。

 

もちろん、運命の転換はストーリーを面白くするための演出だよ。という指摘は間違いないだろう。

本作の手法である、過酷な運命、喪失、多面的描写、矛盾、謎、問いは味わいを一層深める。

過酷な運命はプレイヤーの心をギュッと鷲掴み、より真剣な態度で臨ませる。喪失は「もし大切なものを失ったら」というゾッとするプチ思考実験をプレイヤーにさせる。

多面的描写は目線の違いにより見えている世界が違うことをプレイヤーにハッと気づかせ、矛盾はプレイヤーにオヤッ?とひっかかりを与えることで境遇と相反する信念を浮き彫りにする。

謎はオホッ?!とプレイヤーに疑問符を刻み、同時に好奇心を膨らませ、問いは葛藤や重要な課題をプレイヤーにビシッと明示する。

 

つまりビシッとしてハッとしてゾッとしてギュッとなってオヤッ?オホッ?!こりゃすごいと言うわけだ。(失礼しました)

 

なお手法ではないが、クラスの問題児さえ授業に夢中にさせる教師のように、制作陣の仕掛けた数々のユーモアがプレイヤーの気持ちを前のめりにさせ、本作をひときわ楽しく意義深いものにしたことは忘れてはならない。

 

とは言え、テーマと演出の手法は別問題だ。

僕は本作のテーマを運命超克だと考える。

本作の多面的描写。異なる文化・科学水準の登場や歴史構造にプレイヤーは何度も鳥肌が立っただろう。それにも増して、構造化されたヒエラルキーによる認識の格差に戦慄が走ったに違いない。

これは他人に都合よく利用され、流されて生きるのではなく、世界がどのように作られているか目を開いて欲しいというプレイヤーへの警鐘ではないだろうか。

勉強して、良い会社に就職して、結婚し子供を生み、慣習に従い、立派な社会の成員になる。それは、既得権益層の手のひらの上で踊っていることになるかも知れない。

 

「それが自らの意志によるものではないことに、何故お前達は気付かぬのか。」

 

漫然と他人に流されて生きているのでは、ベルトコンベアーの上で加工成形され流れていく工業製品と大差ないかもしれない。

一般的に「自由」というときにイメージするような何からの影響も受けずに自分の意志を決めるということはあり得ない。

だからこそ、誰が、何が自分の運命を決めているのか知ること。その上で自分が何を大切に生きているか自覚的になること。それでこそ自分の意志で選択できていると言えるのではないだろうか。

 

これらの贈り物を受け取る重要な要素として、媒体がある。

高橋監督はゼノサーガの設定資料集中のインタビューにて大量のテキストを読ませるのにゲームという媒体は向いていないと語っていた。

僕はその意見に半ば賛成するものの、ゼノギアスに感動したのはゲームだったからこそだと言いたい。

確かに僕がゲームに深い知識、洞察を願わせたのは数々の本に目を見開かされた経験をしたからだ。

しかし、ゲームという媒体の特徴として体験がある。

本とゲームでは目線が異なる。

面白い小説を読んでいるとき、物語に歓喜し涙する。そのときでさえ僕たちは傍観者の目線でいる。

それに対して、ゲームは当事者の目線で物語を体験できる。

本作で与えられた数々の言葉、葛藤する登場人物たち。彼らを操作するときプレイヤーは、彼らと一体となって、コントローラーで一歩一歩を共にする。その体験がセリフの一つ一つをプレイヤーに自分ごととして考えさせる。

フィクションは本質的価値を宙吊りにし引き出す力がある。その媒体としてはゲームも引けを取らない。それは読書で得られなかった気づきを本作で得たことで確信した。

 

僕が本作のメッセージに感銘を受けたのは、これこそが僕たちのような普通の人には救いになるからだ。

少しだけ自分の話をさせていただくと、僕は自分の境遇が嫌で嫌でたまらない2度の経験があった。

1度目、社会不適合者扱いされたとき。僕は強く生きる力が欲しくて、教養書や哲学書を読んだ。

そして、自分の境遇を左右する社会の価値観や人生の意義が絶対的なものではなく、誰かの想像上のものでしかないことを知ったことで、呪縛から開放されたような気がした。

2度目、自分が惨めで我慢ならなかったとき。メンターに相談したところ、「自分が何者であるか」知るように言われた。本を何冊も読み、文章化もしていたため、「そんなこと言われなくても分かってる」と内心ムッとしたことを覚えている。

とは言いながらも「自分が何者であるか」とはどういう意味なのか。首を傾げていた。

そんなときに、ちょうどゼノギアスを遊んだ。

 

正直いまだに自分が何者であるか、説明するのは難しい。

しかし、自分の大切なもの、寄って立つ場所がなければ自分の進むべき道が分からないということをゼノギアスが教えてくれた。

自分の生きる価値が分からない、人生が思うように行かなくて苦しい。そんな人にこそ、本作のセリフが刺さるのではないか。

運命超克というのは、なにも世界の危機を救うというわけではなく、日常の中の小さな葛藤に対する一つ一つの意思決定に言える。その一歩は小さくごくわずかでも繰り返せば、運命を乗り越えることができる。

だからこそ、弱い人たちがどのように運命に向き合えば良いかという道標が描かれた本作に作者の愛を感じずにはいられない。

 

「ちょいと人生について考えているのさ。放っておいてくんな。」

 

そんな沈んだ気持ちを抱える多くの人が本作と出会えることを願う。

そのためにもPS3のゲームアーカイブスがサービスを終了した今、新たなプラットフォームでのゼノギアスの復活を夢見たい。