ゲームは快楽装置なのか?~人生におけるゲームの価値とは~

この記事は約23分で読めます。

「ビデオゲームは一時の快楽」という風潮は、ゲームが文化の一つとして定着しつつある昨今においてもあり続けています。

その主張は、以下のようなものです。

  • ゲームは仮想世界で偽りの経験を与える
  • ゲームは人生にとって価値のないもので、一時的な快楽を与えるだけのものである

本記事では、

  1. 思考実験「体験装置/快楽装置」の説明
  2. ゲームは快楽装置であるか考える
  3. 人生において格別価値のあるものを考える
  4. ゲームに欠けているものを考える

という流れでお話します。

結論から読みたい方は、4を最初に読まれることをおすすめします。

体験装置/快楽装置

シェリー・ケーガン『「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義』の中で快楽主義が正しいかどうかを見極めるために、ロバート・ノージックが提唱した思考実験である「体験装置1)」が登場しました。

1)体験装置とは、完全そのものの疑似体験ができる装置である。体験装置:experience machineや快楽装置:pleasure machineと呼ばれる。

この思考実験を紹介する理由は、次の2つです。

  • 仮想現実で快楽を与える理想的な装置とはどのようなものか知り、ゲームとの違いを考える材料にする。
  • 人生に重要なことは、快楽なのかを考える。

以下に、体験装置の設定を記載します。

何から何まで完全そのものの疑似体験ができる。

これはVRゴーグルを付けて、風や振動で臨場感を与えてくれる施設で映画を見るのとはわけが違います。装置で体験することはまさに本物の景色、感覚を味わうことができる完璧な世界です。

自分の望みの体験が入ったデータをダウンロードして利用する。

  • エベレストに登頂する
  • 世界中を旅する
  • 新種の生物、古代遺産、がんの治療薬といった歴史的大発見をする
  • 億万長者になる
  • 愛に満ちた幸せな家庭を築く
    など何でも良いし、組み合わせても良い。

素晴らしい快感と、信じられない、夢のような体験との、この上ない絶妙なバランスが得られる。

体は生命維持装置に繋がれて健康に保たれている。

では、快楽主義(快感こそが人生で最も価値のあるものだとする立場)が正しいかどうかは、本記事の主旨ではないので、早々に答えを言ってしまいます。

著者は体験装置につながれた人生は、人生において価値のある”何か”が欠けているとして、否定しています。

これには僕も同意するところで、歴史に残るような大発見を成し遂げ、世界中から称賛の嵐を受け、栄誉ある賞を受賞したつもりだったのが、目覚めるとすべて夢で、体だけ年老いていたらと考えるとゾッとします

残念ながら本書は、死とは何かを考えることが目的なので、人生の価値についての考察には深入りしないとしています。

思考実験の疑問点

では、本題に移りたいところですが、その前に少しだけこの思考実験に疑問点があるのでおさえておきます。

もしかしたら僕と同じように考えた方もいるかも知れません。

これは本書に書かれていませんが、体験装置は一生あるいは、長期の更新型(10年置きに辞めるか継続するか決める2))といった長期間の体験を前提としているように思われます。

2)ジョシュア・グリーンの提案した、体験装置のバージョン
<参考:wikipedia.https://en.wikipedia.org/wiki/Experience_machine>

理由としては、一つには体験装置で過ごした時間が現実では一瞬だった場合、体だけ年老いるという体験装置のデメリットがなくなるので、快楽主義者でなくとも、つまり快感が最高の価値じゃないにしてもマイナスでない限り、体験した方が良いと充分言える気がします。

二つ目には、例えばエベレスト登山を体験したいと思った場合、1週間や10日費やすだけで、夢のような登山体験ができるとしたら、これまた、偽りの体験であろうとも素晴らしい快感というメリットが時間の消費というデメリットを大幅に上回っているように感じます。

少しニュアンスが異なりますが、素晴らしい夢のような体験をして時間に取り残された浦島太郎の童話が日本人にはしっくりきます。

次に、何から何まで本物の疑似体験ができると言っているにも関わらず、考察の部分で、目覚めると知識さえも持っていないと書かれています。しかし、目覚めると体験のことを忘れるとは書かれていません。

これは、解釈に大きく影響するところで、例えばエベレスト登山を体験して、実際には登山していないというのは重々承知の上で、登山スキルや知識が身についているなら、その知識は価値あるもののように思えます。さらに言うと、世界一の名門大学に入学し学位を修めるような体験をした場合、目覚めてから記憶と知識をもとにして人生の幅を広げることができるような気がします。名門大学に入るも良し、仕事に活かすも良し。ですが、本書ではそのような記述はないため、やはり、知識や経験は失われる、もしくは役に立たないと考えられます。

体験装置で不特定多数の異性と愛に満ちた関係を築くという、実に素晴ら…けしからん!夢の体験をしたとしても、現実でスキルを発揮してモテモテのとっかえひっかえすることは許されません。なお本発言は一夫多妻性を支持するものではありません。

だから、体験装置で体験したことは、ドラマや小説のように

  • フィクションであり、現実に忠実なわけではない。
  • 経験や知識は演出の一部であり、デタラメである。
    と考えます。

前座がながーーーーーーーーくなりました。ごめんなさい!
では、本題に入りましょう。

ゲームは体験装置なのか

ゲームは快楽を与えるだけで、人生にとって有意義な価値を与えないものであるか。

前半の否定<快楽のみを与える>

前半の否定は、簡単なように思えます。

僕が有力だと思う説は次のものです。
ゲームは少なくない頻度で失敗を経験するように設計されている。つまり、快感が成功に伴って生じるとすれば、ゲーム全体で見れば快感より苦悩やもどかしさを覚えることの方が多いため、ゲームは快楽装置としては向かない。

<参考:ビデオゲームの美学>

この説の反論として、僕が思いついたのは

「ゲームは成功が簡単であり、成功と失敗のサイクルが早いのでは?」「短時間で得られる快楽の量は多いのでは?」というものです。

勉強にせよ、スポーツにせよ、仕事にせよ、大抵のことは、努力・修練の期間をまだ快楽の得られていない段階とすれば、とても長い不快の時間を費やし、快感を得る(テストで高得点を取る、大会で勝つ、仕事で成果を収める)機会は限られています。しかも、その結果が報われないこともしばしばあり、基本的に取り返しが付きません。

しかし、内実に目を凝らせば、努力の期間にも小さな快楽はたくさんあります。それをすることそのものが喜びである場合もあれば、自分のちょっとした成長に感じる喜び、1問の正解、1ポイントの得点に感じる喜び、また小テストで高得点を取ったり、日々の練習試合で勝利したりという喜び、と様々な段階と時点で快楽は存在するのではないでしょうか。

本当は、例えばゲームの1ステージクリアの喜びは、スポーツでちょっとした成長に感じる喜びと一緒。などと比較できれば、計算して答えが出せそうなものですが、何にどのくらい喜びを感じるかは個人によって異なるため、ここを掘り下げても不毛な誹謗中傷バトルが発生するだけな気がします。

ただし、経験的に言えることは、それらの快感の質に優劣はないけれども、快感の大きさは不快感の長さ(報われない期間)や大きさ(リスク)に強く影響されるため、それらの配分をどう設定するかで快感の大きさが変わるということはあるでしょう。

また、人の快楽のツボを突くことに特化したゲームも存在すると思っています。

この意味で、ゲームは快楽だけを与える装置ではないものの、ほどほどの快楽を効率良く与える装置になり得ます。ここでは、深追いしませんが、そのことの是非をいずれ考える必要はあるでしょう。

後半の否定<ゲームは人生に価値のあるものを与えない>

この問題に答えるには、「人生に価値のあるものとは何か?」「それはなぜ価値があるのか?」という謎を明らかにする必要があります。

しかしながら、この答えを出すには自分はあまりにも思慮が浅く、無学であるため、僕なりに思考を巡らせた結果を提案させていただきます。ぜひ皆さんも一緒に考えていただければ幸いです。

ここからの流れとしては、

  1. 体験装置に欠けているものを見つけ、人生に価値のあるものとは何かを考える。
  2. ゲームは人生に価値のあるものをもたらすのかどうかを考える。

人生に価値のあるものとは何か

『死とは何か』では、私達が何かをする目的を突き詰めると「快」になることを説明しています。

本質的に価値のあるもののひとつが「快」であることは、否定しません。

お金を払って、サーティーワンのアイスクリームを買って、食べる。最終的な目的はアイスクリームを食べることではなく食べることで得られる「快」である。

「じゃあ、他の価値あるものは?」という疑問に答えるため
ここで、一旦「体験装置」の思考実験に立ち返ります。

この思考実験の目的は、”快楽が人生で最も価値があるか”判断することです。つまり、体験装置に欠けているものを見出すことで、快楽以外の価値あるものを発見することができます。

そして、僕はシェリー・ケーガン先生の手のひらで踊る、ポンポコリンに過ぎなかった。

体験装置に欠けているものとは何か

「現実だよね」
はい、終わり。

まさにその通りですが、これでは「人生に価値のあるもの」に関する本質について何ら理解を深めることができません。

そこで、実際に人生に価値のありそうなものを図にまとめてみました。正直言って、すべて快に結びつくような気がします。

<補足>

  • ツッコミどころ満載ですが、思い浮かんだものを書いてみました。
  • 奥行き(z)軸を加えるとすれば、苦しみ、リスクでしょうか。そして、それらの不快な要素を乗り越えることが高く評価されると思います。
  • 細やかな分類や快・不快がどの程度あれば特に価値が大きいかは本記事では追求を諦めさせていただきました。

<外面的>、<内面的>というのは、著者は人生において格別価値のあるものは内面的(自分自身の評価)と外面的(他人の評価)、両方の視点が必要であるとしており、大きな分類として活用しました。

初めは、「外面的に良いことが人生に格別価値があるなんて疑わしい!」と思っており、内面的なことばかり掘り下げていました。なぜなら、内から生じるもの(本来備わっているもの)ではなく外からもたらされるもの(想像上のもの)に本質的な価値があるとは到底思えなかったからです。

しかし、考えた挙げ句、最終的に外面的な良さが必要であることに思い至りました。

反対方向に走り出したつもりが一周してシェリー先生の答えにたどり着いた…くやしい!

なぜ外面の良さが必要なのか

人生の価値についての考察には深入りしなかった著者が唯一挙げた、価値あるものが「実績」です。しかも、ただの実績ではなく、「人生に格別価値のある種類の実績」としています。

格別価値のある種類とはどういうことでしょうか。

著者はダメなものの例に「アメリカ東部最大の輪ゴムのボールを作る」という実績を挙げています。

僕は、最初「自分にとって価値があれば、社会的な価値があまりなくても良いんじゃないか?」と腑に落ちませんでした。

「うるせー、俺はそれが好きなんだ、ほっとけ!」と言いたいですよね。

そこで、深掘りしてみると、シェリー先生の言わんとしていることがなんとなくわかりました。

個人的に価値あることを内面的にのみ価値のあることだとした場合、先程の図で書いたように、内面的な良いことには思考的、身体的な能力がある。

そして、格別な価値があるためには、格別な思考的、身体的な能力が要求される。例えば、深遠な知識、明晰な分析力、強靭な体力、洗練された技術、そして迸る想像力です。

しかし、巨大な輪ゴムのボールを作ることにそれらの能力が必要だとは思えず、また、その挑戦が格別過酷であるとも命懸けのリスクがあるとも思えません。

とすれば、自分にとって格別価値があるためには、ただの自己満足ではいけないということでしょう。確かに今まで生きてきて自己満足してきたことはたくさんありますが、人生に格別な価値を持つものが果たしていくつあったか怪しいものです。

ここまでで、とりあえず輪ゴムボールがダメな理由は分かりましたが、外面的に良い必要がある理由は分かりません。

僕が考えついた最も妥当そうな理由としては、ものごとの価値は社会的価値基準によって決められ、内面的なことについても例外ではないというものです。

自分は頭が良い、運動神経が良いと言う場合、他人と自分の能力を比較していることになります。世界に自分ひとりしかいないとしたら、自分が賢いのか強いのか分からず、そもそも賢いとか強いとかいう概念もないように思えます。

つまり、自分の能力といった内面的な価値も社会(外面)から与えられた”ものさし”を使って、他者(外面)と比較することで生まれるのではないでしょうか。

え?外面的に良いから内面的な価値が生まれるのか、内面的に良いから外面的に価値が生まれるのか?…分かりません!

他者が外面であるのかも難しいですが、少なくとも、ものごとの価値が他者に依存しているとお考え下さい。

ただし!すべてにおいて外面的な価値が乏しければ人生に格別な価値がないかと言えば、そうではありません。

それは、内面的に格別価値があるけれども、外面的に知られていない、価値が理解されていないだけという場合です。

存命中に評価されず没後に評価された偉人では、宮沢賢治やゴッホが日本人に馴染み深いところです。

だから、他人より優れているとか他人に評価されなくてはいけないという構図を打ち破る方法の一つに「自分の全身全霊を傾けた『うるせー、俺はそれが好きなんだ、ほっとけ!』」があるのではないでしょうか。

そして、もう一つ僕が考えたのは、「世界は自分だけのものではない」と知ることです。価値を手に入れることばかりに囚われていると、すべての価値を手に入れよう、すべての他人を超えようと際限のない欲に駆られることになります。

ヒトだけでなく動物、虫、植物などさまざまな存在に価値を認めることで、自分以外の存在が自分の世界の拡大を妨げていること、また自分の超えられない能力を持っていることを自然なことだと納得できるようになり、いちいち苦虫を噛み潰したり、地団駄を踏む必要がなくなります。そして、同じ世界に住む仲間の幸福を自分の幸福として感じられる共同体意識が生まれるのかも知れません。

と、言い出すとなんともスピリチュアルな気配にみなさん「あ、そういうのは大丈夫です。(玄関バタンのガチャン)」となってしまったことでしょう。

もちろん、僕はここまで達観してはいませんが、ユヴァル・ノア・ハラリヤニス・バルファキスによる現代社会の批判からは、〇〇主義や宗教が人間の作った物語でしかないことを思い知らされました。そして、現代社会の思想が多くの人々を幸せにできない可能性を両者の著書は示唆しています。

身近な例で言えば、夫婦という運命共同体があります。僕は結婚当初、結婚生活ならではの自分の時間の減少に「自由が奪われる」「仕事の成功の邪魔になる」と感じることがありました。それは、人生で最も大事なことは“個人の自由”である、または、“出世や経済的な豊かさ”である、という社会的価値観に囚われていたからです。しかし、家族というチームなんだから、自分の利益ばかり追求せず、家族全員が幸せであるかが大切だと思い直しました。パートナーが目標に向かって頑張っているときは自分が支えるなど、お互いの幸せを応援し、喜び合う関係が理想だと今では考えるようになりました。

ただし社会的価値観が全て悪いわけではないでしょう。主義や宗教、文化が人を幸せにするために作ったものであれば、中には「本当に良い」要素も含まれていそうですね。また、正義、美徳や愛という、どう考えても人生の価値に深く関わってくるであろう要素も想像上のものであり、外面的なものの中にも「格別価値のあるもの」がありそうです。

しかし、僕のレベルが攻略要求レベルに達していなかったので、このへんで撤退します。

まとめ

内面的に良いだけではなく外面的に良いことが重要である。
外面的な評価にとらわれない方法として、「全身全霊を傾けた『うるせー、俺はそれが好きなんだ、ほっとけ!』」や「世界は自分だけのものではない」という考え方がありそう。

そして、
ビデオゲームが人生において格別価値があるかどうかは、疑いの余地がなく自分の内面的な価値が発揮されていて、かつ今自分の生きている時代の社会や文化に評価されるかによって決まる。

ビデオゲームは何が欠けているのか~体験装置との比較~

ようやく、人生における格別な価値についての僕の拙い説明で、皆さんの頭の準備体操が済んだところで、

なぜ僕が体験装置につながれた人生はごめんだと思ったのか。

体験装置に欠けている4つの価値を指摘して、ビデオゲームはそれを否定できるのか考えます

あらかじめ言っておくと、体験装置は人生におけるとても長い期間を費やすのに対し、ゲームは1日2時間なら8%しか使わないことを考えると、損失する価値の大きさを同じ水準で語るのは間違っています。けれども、ビデオゲームに欠けているものは何かというゲーマーを長年苦しめてきた問いに、いちゲーム好きとして答えたいと思います。

<体験装置>社会のために何も貢献していない。~社会貢献が欠けている~

<ビデオゲーム>

確かにゲームは社会のために貢献することを目的としない。しかし、そもそも趣味は社会のために貢献することを目的としないように思える。

また、ゲーマーを皮肉って、ゲームの中で世界を救ったり、誰かを助けたりしても、現実には誰も助けていない。

と、批判するのは見当違いである。

ゲームに余暇の多くを費やしている人でもそれ以外の時間で、学業や労働によってゲームをやらない人とまったく変わらず社会に貢献している。

スポーツのようにプレイが誰かを魅了したり、興奮させたり、勇気を与えることができる。また、芸術としてフィクションを体験して感じたことを、自分自身の人生に活かすことも他者に伝え、価値を分かち合うこともできる。

<体験装置>現実の世界から逃避して、自分だけの世界に引きこもっている。~社会とのつながりが欠けている~

<ビデオゲーム>

まず、ゲームは現実の中にあり、その行為は現実のものである。

ゲームをしても仮想の世界に逃避できない。…部屋に閉じこもることはできるけど。

子供がゲームをプレイして「あ、うちの子ゲームの世界に行っちゃったわ、どうしましょ!」という親はいない。

この批判の意味が「現実で強く生きるために常に現実と向かい合いなさい」というありがちな意味であれば、現実という名の〇〇主義(自由主義、資本主義など)というゲーム・・・(ビデオゲームではない)と四六時中格闘し続けることがそれほど人生に格別意味のあることかよくわからない。なぜなら、多くの人が言う現実とは、前章で挙げた外面的なものの上に成り立っているからである。

フィクションの世界に触れることに対する批判であれば、人はフィクションの世界を見るとき、常に現実の世界と対比しながら解釈している。これは、固定観念にとらわれず、本質的な価値を見出すことのできる点で現実を生きる力となる。
<参考:地球ドラマチック「ファンタジーの世界~魔法の王国の秘密~」>

次に、息抜きや楽しみは社会を前向きに生きることに役立つ。

さらに、ゲームをすることは社会と無縁ではない。ゲームを買う、プレイする、クリアする、それぞれの段階で、自分以外のプレイヤーや様々な人の存在を意識し、他者と比較しながら価値を推し量っている。

そして、ゲームで遊ぶことに社会的なつながりを目的としている場合が往々にしてある。ゲームは友人とともに遊ぶ、進捗状況を話す、感想を語るなどのコミュニケーションツールとして機能している。

仮に、「世界に自分ひとりだけしかいない」状況を想像したとき、
どんなゲームを選び、どう遊ぶか、そもそもゲームで遊ぶかどうかは、きっと変わるのではないだろうか。

<体験装置>肉体的な強さが得られない。~身体的な価値が磨かれない~

<ビデオゲーム>

仕方ありませんね。

最近はニンテンドースイッチの『リングフィットアドベンチャー』などのスポーツゲームが話題ですが、人生に格別価値のある肉体を手に入れることはできないでしょうから、そういう目的の方は本格的なトレーニングを積むしかないですね。

<体験装置>人生において格別価値のある”何か”が欠けている。~ビデオゲームは”何”が欠けているのか~

<ビデオゲーム>

「ビデオゲームに欠けているものは何か」

まず、ゲームの本質である遊びの観点からお答えしたい。

遊び本来の目的とは”自分”世界*との関わりにおいて生じている諸問題を”自分”なりの方法で世界に訴えかけることである。

ちょっと分かりづらいが、授業という抑圧された環境への反抗として、教科書に落書きという形で自分の世界を展開させるなど。
*世界という言葉を多様しますが、以下の精神的事象や自我を含めたものです。
“物体や生物など実在する一切のものを含んだ無限の空間。宇宙。哲学では社会的精神的事象をも含める。また、思考・認識する自我に対する客観的世界をさすことも多い。”
<引用:コトバンク「大辞林 第三版」>

ゲームにおいて、それぞれの作品はそれぞれの作者により設定されたルールに従って遊ぶことになる。であれば、ゲームは自分ではなく作者の遊びを借りることになる。その点で、遊び本来の自分の好きなように世界を創り変える、世界と駆け引きする働きがいくらか損なわれるという欠点がある

だが、ゲームはコンピュータの計算能力と、虚構の世界が掛け合わさり、不可能を可能にするような夢の体験ができる比類のない遊びである。そして、その体験はひとりひとりの世界との関わり方という現実と結びついている点で体験装置のような幻の体験ではない。

僕は、遊びは生きることに近いと感じている。なぜなら、遊びは自分とは何か、そして自分と世界の間に生じている軋轢あつれきが何であるかを体現するからだ。だからこそ、僕は人生において遊びは価値のあることだと断言する。ただし、”格別”であるかはそのときどきの内容によるが。

ドラクエⅢの遊び人が悟りの書なしに賢者に転職できるという設定は核心をついている。

世界との軋轢という表現はイメージしにくいかもしれない。仮に、現実とそっくりそのままの世界を舞台に、自分というキャラクターを神目線で操作できるゲームがあると想像していただきたい。きっと、普段自分を押しとどめたり、反対に強引に背中を押しているもの ― “社会的圧力や自分の有能・無能さ” ― を、無視したり、笑ってみたり、とことん発揮したりと思いのままに過ごすのではないだろうか。そして、そこで感じた現実とのギャップは、自分や世界についての理解を深めるだろう。

世間では遊びはしょうもないことで、そんなことをする時間があれば勉強すべきだというのが一般的な見解ではないだろうか。勉強も詰まるところ型にはまった仕事や、キャリアライフを充実させるのに役立つ方法についてばかりだ。これは人々が資本主義という想像上の価値観を無意識に信奉し支えている光景であり、その先に人生に格別価値のあるものが待っているとは信じがたい。同様の主張をしている映画を皆さん一度は見たことがあるだろう。

例えば、スコット・ヒックス『人生のレシピ』は、肩書という社会的評価に縛られた主人公の天才シェフが、人生において本当に大切なものが何であるか気づくというという物語である。

型通りの”お勉強”や”人生設計(設計された人生)”に意味がないとすれば、どんな知識や経験に価値があるのか。

池上彰氏の言葉を借りれば、「我々はどこから来て、どこへ行くのか」。つまり、人間とは、日本人とは何か、社会はどのように形作られるのか、人生とは何か、何が善で何が悪かといった精神性を豊かにしてくれるものである。そして、自分自身についての理解も導かれる。

以上のような、本質的な知識に価値があり、社会というゲーム・・・のブラックボックスの中身を解明する手立てとなる。

しかし、皆さんご承知のように、勉強、読書による知識の詰め込みというものは、苦痛が伴う。…じゃなかった。実態が伴っていない。

六花亭のバターサンドが、いかに甘さと塩気の絶妙なハーモニーを奏で、レーズンとバターの芳醇な香りが鼻腔を突き抜け、脳内でベンゾジアゼピンやエンドルフィンが爆発するのかは、写真や商品説明では決して理解し得ない。

だからこそ、体験が大事なのだが、特に自分や他者が世界の中でどのように在るか意識させるような体験世界と自分の関わり方を探る試行錯誤の体験が人生において価値があるのではないだろうか。

では、ゲームにそれらの知識や体験があるのかと言えば、残念ながら、ゲームはその手の一次情報(体験を含む)が乏しい。

だったら、自分自身で一次情報を獲得した上で、ゲームを遊ぶことで、現実に囚われない発想、現実の壁に遮られて見えない価値に触れ、自分や世界についての理解を深め、人生を豊かにしてくれるだろう。

しかし、これはゲーム好きにとってあまり魅力的な答えではないことは確かだ。

ゲームのプレイやフィクションを通して得られた経験が人生で価値のある一次情報となり得るのか、どのような意味を持つのかはこれから解明していきたい。

さいごに

「人生においてのゲームの価値とは」と銘打って書いた本記事ではありますが、“これが人生において格別価値がある”という結論を出すことは叶いませんでした。(追記にてこの結論を否定します)

それには、“人生において格別価値があることとは何か”を解明する必要があるでしょう。

ただし、ゲームがもたらすもののうち、人生において格別価値があることに繋がるものとして

遊び:自分の世界と自分を取り囲む世界との関わり方。芸術やスポーツも含める。
フィクション:現実を超えたものを見るとともに、現実を見る別の視点を与えてくれる。
人とのつながり:ゲームはコミュニケーションツールになる。

以上の3つのことを見つけることができました。

長い旅になるかもしれませんが、今後、ゲームの本質的な価値を探っていくことが本ブログの新たな目標です。

【2022年追記】

アレクサンダー・クリス『ゲーム思考 コンピューターゲームで身につくソーシャル・スキル (ニュートン新書)』において、ゲームは遊びを通して自分自身を反映する鏡として、自分自身を理解する手段となると書かれていました。

これは僕が結論で書いた遊びの価値である“自分の世界の反映”であり、「自分がゲームに反映させたいもの」を知ることが自分自身と自分を取り巻く世界の理解に繋がるということになります。

前項で考察したように、たしかにゲームは作者の考えた遊びである点やシステム上の制限により遊びの駆け引きの幅に制限があるけれど、多用なゲームがあることで、その欠点はある程度補われているように思いました。

自分にとって意味のあるゲームを見つけられたとき「そのゲームがなぜ自分にとって意味があるのか」を理解することで自分自身を理解することに繋がるのでしょう。

だとすれば、ゲームは僕が人生で価値があるとした“自分や他者が世界の中でどのように在るか意識させるような体験、世界と自分の関わり方を探る試行錯誤の体験”になりうるのではないでしょうか。

くわえて、本書ではVR(バーチャル・リアリティ)ゲームでの体験を通して、現実で抱える問題を克服した例があります。僕はそれを読んでいるとき体験装置が頭に浮かんでいました。

ゲームの体験は仮想世界のもので、表現も現実のものと比べると劣るでしょう。しかし、本書の登場人物はその体験から問題を克服したのです。

僕が思ったのは、虚構での体験も一次体験としての価値があるのではないかということです。

すなわち、体験装置に意味がないというのは誤りであり、仮想世界での経験は現実に活きると言えるでしょう。

ただし、体験装置の設定にもよります。例えば、体験装置の体験が快楽を与えるために常軌を逸した歪んだ体験を与える場合や、体験したあとに余命がほとんどない状態であれば体験装置の価値は認めにくいように思えます。

ですから、ゲームは現実世界そのものの一次情報とはならないまでも、現実の体験として一次体験になる。そして、自分や世界の理解を深める手段として”格別価値あるもの”と言えるのではないでしょうか。


2016年に発行された ユヴァル・ノア・ハラリ『ホモ・デウス』において、人間がAIに取って代わられた世界で、やることがなくなった人類の暮らす最後の場所として、薬物とコンピュータゲームが引き合いに出されています。

そして、
「夢の国で人工的な経験を貪って日々を送る無用な怠け者たちのどこがそれほど神聖だというのか?」

という衝撃的なメッセージが登場します。

終末世界像としては個人的になかなか好きな部類であり、著者の鋭い皮肉を味わうのが大好きな僕はシンバルモンキーさながらに歓喜し大絶賛していましたが、心中穏やかではない方もきっと多いでしょう。

しかし、この例えは、現代のビデオゲーム批判とは少々違うと思っています。

理由は、次の2点です。

現状のゲームはまだまだ仮想現実と呼ぶほどリアルではないこと。
上記のコンピュータゲームは現代のゲームというよりAIの発達により将来訪れうる、ディストピアのひとつの形を描いていること。映画『マトリックス』の世界に近い。

ただ笑えないこととして、僕自身10代の頃から「仮想現実の世界に入り込んで、自分の思うがままに過ごせる」バーチャルなゲームが将来登場することを心待ちにしていた節があります。

本記事を書いて気づいたことは、仮想世界で快感に満ちた体験をするだけでは体験装置となんら変わらないのではないでしょうか。

やはり、ゲームは”遊び”であることが何より大切であり、ゲーム性が欠かせない。そして、挑戦者を待ち受ける様々な苦難があり、ちょっとだけ本当に大切なことや現実を生きる力を与えてくれるものであって欲しいと考え直す良い機会となりました。


【参考書籍】

  • シェリー・ケーガン『「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義』
  • 松永伸司『ビデオゲームの美学』
  • ミゲル・シカール(邦訳:松永伸司)『プレイ・マターズ 遊び心の哲学 (Playful Thinking)』
  • ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』
  • ユヴァル・ノア・ハラリ『ホモ・デウス テクノロジーとサピエンスの未来』
  • ヤニス・バルファキス『父が娘に語る 美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。』
  • アレクサンダー・クリス『ゲーム思考 コンピューターゲームで身につくソーシャル・スキル (ニュートン新書)』