ゲームで正義を行うことは難しい

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ゲームで「正義」を行えるのか?

突拍子もない話題かと思いますが、

僕は、ゲームが軽んじられる原因のひとつに、ゲームの世界がフィクションであるがゆえの現実味のなさがあると考えています。

だからこそ、ゲームで自分の価値観を反映させて遊び、その経験がゲームプレイ以外の場面で活かされるなら、「ゲームを遊ぶことは良い」ということにならないか。そう考えた訳です。

本記事では、

自分の正義を反映させてゲームを遊ぶことができるのか。

について考えたことをまとめました。長くなりましたので2~3日に分けて読むことをオススメします。

結論のみ言えば、難しい。

正義とは

『正義の教室』を読んで

そもそも、こんなことを考えたきっかけは、2019年に発売された飲茶『正義の教室』を読んだことです。

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みなさん正義ってあると思いますか?

僕は、正義なんて存在しないと思っていました。なぜなら、「正しいこと」なんてものは、価値観、信条、立場によって簡単に変わるからです。

単純な例として、戦争で敵兵を殺すことは、こちらにとっては正義*ですが、相手にとっては悪ですよね。
*集団的認識としての解であり、本記事で扱う個人的な正義とは異なります

正義なんて、手前勝手な自己正当化であり、洗脳に使う便利な言葉だと考えていました。

しかし、正義の教室を読み、確かに「正義」はあるのだと知りました。

そして、ゲームを通して行っていることが正義であるかを考えながらゲームをすることは、ゲームの楽しみのひとつになるのではないかと考えたのです。

それは、松永伸司『ビデオゲームの美学』で提起される、ゲーム行為の芸術性にもつながると考えています。

正義の定義

なぜ正義があるのかは本記事では扱いません。ネタバレになるし。

とにかく正義はあるのです!

「正義」とは

正義とは〇〇である。と他人に押し付けられるものではなく、自分自身の「これが善い」と思う事である。

言い換えると、正義は人の数だけあるということです。

なお、僕は哲学の素人ですので、物事の分類をややこしくしているだけかもしれません。

飲茶さんごめんなさい

ゲームでプレイヤーが正義を行うことは難しい

最初は正義について考えながらゲームをプレイすることは簡単だと思っていました。

だって、「正義」というテーマはありふれています。

しかし、約2週間悩みに悩み、どうしても「難しい」と結論せざるを得ませんでした。くやしい!

その理由は大きく分けると

ゲームならではの理由
暴力的な表現が多い

という2点があります。

ゲームならでは

ゲームの正義について考える上で、前提としてゲームならではの特徴をおさえておきます。

ゲームにおいて、正義の問題が起こるのは、ゲームのルールやシステムからではなく、フィクション(虚構世界)の内容です

そのため、例えば、「このゲームは倫理的に問題がある」と言う場合、コンピュータを使った遊びとしてのゲームやシステムに問題があるわけではなく、フィクションに問題があると考えられます。

『じゃあ、話はフィクションの問題でゲームは関係なくね?』
と思うかも知れません。

ここで、ゲームならではのプレイヤーとフィクションが互いに影響し合うという特徴が重要になります。

例.プレイヤーがゲームの世界に示された”主人公は勇者であり、悪の帝王から世界を救う”という情報を読み取り、悪の帝王を倒すためにゲームをプレイする。

つまり、プレイヤーはフィクションの情報を解釈し、解釈の結果をプレイに反映してゲームを遊びます。

そのため、プレイヤーは良かれ悪しかれフィクションの内容に働きかけて遊ぶことになります。

 

そして、あたかもフィクションの世界を体験しているような感覚はゲームの醍醐味であり、ゲームならばフィクションの世界で正義を行うことができると誰もが思うところではないでしょうか。

しかし、なかなか難しいと思える問題として以下の点を考察します。

フィクション上で起こる事柄が自分の正義と異なる
プレイの動機
選択肢の限界

フィクション上で起こる事柄が自分の正義と異なる

はじめに条件として、プレイヤーによる何らかの操作が可能である場合に限定します。

そうしないと、コントローラーを手放して眺めているムービー中の出来事も含まれてしまいます。その場合は、映画を観たり、本を読んだりしているのと同じであり、プレイヤーによる介入の余地がありません。

 

それではフィクションとプレイヤーの思いが食い違う例を挙げます。

主人公が好戦的で、「命だけは助けて」と降参している敵と戦闘を始めるが、プレイヤーは許してあげてと思っている。

主人公が臆病で、「私を置いて逃げて」と言うヒロインを尻目に逃げるが、プレイヤーは逃げる気は毛頭ない。

※プレイヤーは赤字の部分を操作する。

『これって、つまり他に選択肢がないんじゃないの?』と思うところですが、ゲームが相互作用的であることの反面、不本意な行動を強いられる、という場合があります

その場合自分の正義に反したことをさせられることになるので、ゲームのデメリットであるとも考えられます。

ただし、製作者に何らかの意図があってそういうシナリオを書いていることもあり得るので、良いか悪いかの判断は難しいところですね。

プレイヤーは攻略を目的に遊ぶ

【ケース1】トロッコ問題

トロッコ問題については有名な話のため、詳細を知りたい方はネットを参照下さい。

要は、あなたは暴走するトロッコを目撃しており(目撃者)、このまま進むと5人が轢かれて死亡する(Aルート)が、レバーを引いて分岐を切り替えると1人が死亡する(Bルート)という話です。
なお、他の手段は使えないものとする。

この問題は『正義の教室』でも、正義を問う問題として取り上げられました。

どちらが正しいという正解のない問題であり、僕自身功利主義的な「最大多数の最大幸福」を善しとする信条を持っているつもりですが、その状況におかれたとき1人を犠牲に5人を救うと決断できるかと言えば、できないと思います。しかしながら、この問題はそのジレンマを認識させ、人を考えあぐねさせることこそに大きな価値があると言えるでしょう。

 

さて、これをゲームに適応するとどうでしょうか?

おそらくほとんど迷いません。

どちらの選択をしたらゲーム的に正解なのかを考え、おそらく救った人数の多い方が評価が高いと判断し、Bルートを選ぶ。

そして、同様の思考をする人は少なくないのではないかと思います。

なぜなら、人を助けた数が多いほど報酬や評価が高くなるゲームは多いからです。
FFⅨで命を救った人からアイテムをもらった覚えはありませんか?バイオ6で生存者の数でトロフィーをもらったことは?桜坂消防隊などはまさに何人救えるかのゲームです。

これを考えているときもしかしたら現代人は功利主義者が多い(僕の想像)から、功利主義的なシステムが作られるのかな?とも考えましたが、おそらくもっと単純で、人を助けることは善い、そして助ける人数が多ければ多いほど善い。だから、人を助けたらご褒美を与え、たくさん人を助けたらもっとご褒美をあげようという発想に従っているに過ぎないのではないでしょうか。

もちろん現実には誰も死なないという点を忘れてはいけません。だからこそ、この問題に道義的な判断は必要ないと言ってもいいかもしれません。

文字にしてみるとろくでもありませんが、
「ひとり死んで-1ポイントだけど5人救ったから差し引き4ポイントで結果は上々」
とプレイヤーが考えることは自然なように感じます。

【ケース2】行動

もうちょっと、ありえそうな想定をしてみます。

主人公は街の中におり、少女が泣いている。

みなさんはどうしますか?

おそらく話しかける、正確には「話す」という操作をするのではないでしょうか。

このとき話しかける理由として、「心配になったから」というものが第一に考えられます。

これは、思いやりのある行動として道徳的と感じます。

しかし、ゲームならではの理由として、「ストーリーを進めるフラグなのでは?」、「助ければお礼がもらえるのでは?」というゲーム攻略上の利益を目的に話しかける場合があります

僕はこの理由がゲームにおいては大きいと思っています。

身も蓋もない言い方をすれば、女の子の事情なんてどうでもよく、ゲームをクリアしたい、アイテムが欲しいから話しかける。
【ケース3】選択肢

ケース2の続きです。

少女に話かけるとこう言う。

「お父さんがいなくなったの」

どうやら、父親が行方不明らしい

そして、選択肢が現れる。

父親を探してあげますか?「はい」「いいえ」

 

はい、いいえ

はいを選んだ場合、主人公は見ず知らずの少女の父親を見つけるまで、探す責任を負います。なぜなら諦めるという選択肢はないからです。

まぁ、クエストならキャンセルできるかもしれませんが。

しかし、いいえと答えるのは、フィクションと言えども悪い気がします。それにおそらくこのイベントは攻略に必須であるか、もしくは報酬が貰えるだろうと踏んで引き受けます

この点はケース2と同じく、プレイヤーの良心的な判断と攻略重視的な判断が混在しています。

ゲームの主人公ってあまりに大きな責任を安請け合いするから太っ腹だな〜といつも思うところ。
現実的に考えれば、他の人に頼んでくれるよう促す。とか、他の人の協力を仰いでもいいんじゃないかな。

この二者択一の選択肢は、助けるにしても、あんまり助けない、ほどほどに助けるというような質の違う判断を反映させることができません。だからといって、この欠点を解消するために、選択肢を増やしたところでさらに重要な問題があると思います。それは、ニュアンスとでも言うべき文面以外の情報を表現できないという欠点があります

現実の会話において、表情、身振り手振り、声色、間といった非言語的なコミュニケーションを伴っています。

もし、親身になって話を聞き、両手を握りながら「役に立てなくてごめんね」と言われたなら、少し温かい気持ちになるでしょう。

関係ないけど、ドラクエでわざとNGな選択肢を選んで遊ぶのが至高の楽しみというは僕だけではないはず!

選択肢という表現がテキスト選択式のゲームに限定しているように感じたなら、行動によって起こるシナリオの分岐が2つあると考えてもらっても良いです。
【ケース4】価値観重視か攻略重視か

さてさて、「はい」を選択した主人公は

町中の人から情報を集めるという大仕事の末、人々をさらっているという敵(人間でもモンスターでも良い)の存在を突き止め、またしてもお節介過ぎる主人公は敵のアジトへ乗り込み、一団を壊滅させ、捕らわれた人々を救い出した。しかし、少女の父親は見つからなかった。残念。

 

街へ戻った主人公が少女に話しかけると選択肢が現れる。

  1. 「父親が見つからなかったと言う」→少女は悲しみに暮れる。報酬なし。
  2. 「父親を助けたから、もうすぐ君を迎えに来るだろうと言う」→お礼にアイテムを入手。

なお、どちら選択肢を選んでもストーリーは進行する。

うーん、こんな脚本ないわぁ

この場合はどうでしょうか。

本当のことを言うか。嘘をついてアイテムを手に入れるか。

正直、設定によって、答えが変わるかもしれません。
例えば、少女の境遇によって、報酬が高性能アイテムだったら。

ただ、このレベルになると間違いなく自分の正義感と葛藤します。

この記事を書いている今の僕の決断としては、1を選びます。
ゲームだとしても、家族の命に関わる嘘は重いと感じますし、2の選択をする自分を肯定できないからです。2を選び、父親を待ち続けて嘘に気づいたときの少女の気持ちを想像すれば、恐ろしくなります。

もし僕の意見に賛成していただけるなら、ゲームにおける行動原理が常に攻略重視ではなく、利益に反してまで自分の価値観を優先する場合もあると言えるでしょう。

このケース初見だと成り立たなくね?と思った方、相当ゲームやってますね。

そうなのです。2を選んでアイテムがもらえるかは初見では分かりません。

僕は、この点も重要だと考えています。

あくまで僕のスタイルではありますが、1周目は攻略情報を見ずにストーリーを楽しむ。2周目で完全攻略(コンプリート)を狙ってプレイします。

なので、2周目であれば選択が変わってきます。もし、貰えるアイテムが他で入手不可能なアイテムであれば、2を選択してアイテムを手に入れるでしょう。その際は、本気の選択ではない。だから考えるのをやめてプレイをします。

さらに言えば、貰えるアイテムだけでなく、このイベントを攻略することで得られるメリットを総合的に見て、時間の無駄だと判断した場合は、少女に話しかけることすらしないでしょう。

何周しようと、自分の正義を譲らずにプレイをする方もいらっしゃるかもしれませんが。

攻略を評価しがちなゲームの文化は、自分の善とは何かと問う正義のあり方と相性が悪いのかもしれません。

それでもやっぱり完全攻略したいですよね。

まとめ

ゲーム内の称号、クエスト、トロフィー、実績などプレイヤーを駆り立てるものはたくさんあり、間接的な要因としては、〇〇をクリアした、攻略したと兄弟や友達に自慢したい気持ちもあることはよく分かります。

プレイヤーは多くのゲームに設計された攻略という動機の影響と、選択肢や表現の質といった行為の幅に制限を受けるという意味で、正義を目的に遊ぶことは難しいのではないでしょうか。

(補足)
ここまで触れてきませんでしたが、

フィクション(仮想世界)を想定しないプレイや、フィクションで表現されたものこそが主人公の動機だ(つまりどう行動しても主人公の正義)と考えてプレイした場合は、そもそも自分の正義うんぬんは関係ないと考えて割愛しました。

もう一点、フィクション上のキャラクターにとっての正義を考えてプレイするという遊び方が想定できますが、本当の意味でそのようにプレイしようとした場合、虚構世界の社会通念、国家、宗教、キャラクターのアイデンティティーなどフィクションの設定を踏まえて正しく想像するのはなかなか難しい(例えば、死者が復活する世界の価値観とかよく分からん)のと、製作者はフィクションの世界に身をおいた(と想像する)プレイヤーの価値観で遊ぶことを想定していると思うので、今回は考察を諦めました。

攻略を目的としないゲーム

ここまで、攻略に動機づけられたプレイの問題点を書いてきたので、

『じゃあ、攻略を目的としないゲームなら良いんじゃない?』と考えると思います。

僕もそう考え、メジャーなソフトの中で真っ先に思い浮かんだのは「どうぶつの森シリーズ」ですが、僕が書かずにいられないのが「巨人のドシン」というソフトです。

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巨人のドシンはParamが開発し任天堂が販売したソフトで、ニンテンドー64版とニンテンドーゲームキューブ(GC)版がありますが、僕がプレイしたのはGC版のみのため、後者について取り上げます。

まずこのゲームのジャンルはゴッドゲーム:その名の通り、神の視点でプレイするゲームであり、「私が世界であり、法律であり、正義」なので、正義の観点からすると、操作する神自体は何の価値観にも縛られないというのが面白いところです。

そして、一番重要なのは、攻略を目的としない点です。というのは、攻略はできるけど攻略を目的にして遊んでもまったく面白くありません。

~ネタバレを含む~

巨人を操作し、人々との交流を楽しむゲームである
プレイヤーは、人を喜ばせたり、嫌われたりしながら巨人を成長させる
人々がゲームで設定された全ての建築物(モニュメント)を造ると世界が終わる

もし攻略を目的に遊ぶならば全ての建築物を建てることが目標となるでしょう。
しかしながら、世界が終わると新たな世界が始まる、つまりふりだしに戻ります。また、ある程度コツをつかめば攻略自体にかかる時間はたかが知れているので、攻略を目的に遊んだ場合は、新たな世界の始まりと同時にむなしさを感じることになるのです。

実は当時、僕はこのゲームをクソゲーと言っていました。

お察しのことと思いますが、ゲームは攻略してなんぼと考えていた僕は、せっせと建築物を作り、そして、あっけなく終わってしまったこのゲームに対し、当時の任天堂の最新ハードにしてこの出来はひどいななどと思いながら、2周目を遊ぶこともありませんでした。

ただ、なんか違う気がする、という言い様のない気持ちがずっと残っており、正義を行うことができるゲームとは、と考え、このゲームを思い出したときに、ハッとしました。

このゲームは、攻略を目的にするとつまらない。だから本作は人々との交流こそが楽しみであり、攻略に動機が誘導されることがない。
なぜ、この世界が無限にループするのか。製作者が意図したことはプレイヤーが世界を終わらせることではなく、何度も人々と遊ぶことだからである。
神であるプレイヤーは、フィクションの世界に自由に価値観を投影することができ、人を喜ばせる、悲しませるなど気の赴くままに暮らすことができる。男性と女性を引き合わせ、集落を大きくして、災害から村を守る守護神となってもいい。働かない住民を島流しにしてもいい。村同士の戦いがあれば、気にくわない村を叩き潰してもいい。いっそのこと破壊神となって、人々を恐怖に陥れ暴れまわるのもいい。
なにもせずに座って世界を眺めているのもいいかもしれない。

 

果たして目に見える目標がないゲームが本当に面白いのかは、本記事を書いてさえ確信しかねますが、

フィクション上で起こすことを主体的に決められる
攻略が目的になりづらい
行動の幅が広い

という点でプレイヤーの価値観を反映しやすく、

人とのコミュニケーション
好きと嫌いという感情

をテーマにした本作は、自分の正義を為したり、反対に悪戯心を解放して遊べるゲームってこういうものなんじゃないかなと思わせてくれます。

さらに他者とどう関わるかという誰しもが抱える内面的な問題をユーモアのあるデザインで遊びに変えており隠れた名作と呼べるのではないでしょうか。

暴力的なゲームが多い

この話題はゲーム好きにとって非常に敏感にならざるを得ないところです。

はじめに僕が言っておきたいのは、例えゲームで何千キルしようが、何百匹モンスターを倒そうが、現実で人を大切にできるのなら全く問題ないと思っています。

 

ゲームと言えば戦闘はつきものであり、戦闘システムを売りにしたソフトは多いと思います。

僕自身コマンド選択式バトルもアクションゲームのバトルも好きです。

しかし、正義の面から考えて、戦闘は正義と折り合いがつきません。

きっと、戦うのは敵に侵略されたからだ、自由や平和を取り戻すための戦いなんだと言う方がいらっしゃると思います。

確かにラスボスを倒して、世界が平和になったというお話は多いですし、世の中綺麗事だけじゃ済まないという意見には僕も賛成です。

ただ、直感的に、倫理的に、戦闘は善いことだ。と思える人がいるのかは甚だ疑問です。

いや、暴力が正義である世界はあり得ると思っていますが、大事なのは、論理的に正しいことと直感的に嫌なことは話が別だということです。

だって家族や友達や同僚に「事情があれば暴力を振るっても良い」なんていう奴がいたら嫌じゃないですか。(世の中にはお仕置きされたい系男子もいるかもしれませんが)

非暴力的解決を重視する方向へ進んでいる世の中で、ゲームだから戦闘は許されると言い続けるのは難しいかもしれません。

と言いつつ、僕は友人と格闘ゲームで遊びます。

近年ゲームデザインにも変化が起こっており、中沢新一+中川大地『ゲーム学の新時代』にて、「戦わない戦争ゲーム」が増えていることが書かれています。

具体的には、非戦争中の官吏の日常を描く作品『Papers,Please』、戦場で戦うのではなく生き延びることを目的とした作品『This War of Mine』、現代から戦時中の史料を調査するゲーム『Attent 1942』などが紹介されていました。

残念ながら、そうした流れの背景は分析されていませんが、社会的な価値観が変化していることの現れではないでしょうか。

こうしたゲームであれば、FPSが苦手な僕でも楽しむことができるかもしれません。

戦争ゲームはあまりやりませんが、バイオハザードのようなサバイバルシューティングゲームは大好きです。

もちろん洋ゲーと日本のゲームで文化的な違いがあることから、この流れが日本にもくるのかは分かりません。また、開発されても果たして売れるのか疑問です。

PlayStation Award2019の結果を見ても、ファミ通の販売本数トップを見ても戦闘ゲームばかりですしね。ちなみにどうぶつの森が期待のソフト2位だったことは微笑ましい。

 

「戦わない戦争ゲーム」はプレイヤーの家族の目線で見たとき、自分で積極的に敵を倒すゲームと比べて、家族がやることへの抵抗が大幅に少ない気がします。かえって、大人のフィクションを楽しむスタイルがクールかもしれません。グロテスクな表現には注意を要しますが。

今後、戦わずに正義を為すというゲームデザインが普及することに個人的には大きく期待するところです。

ポイント

プレイヤーが正義を目的に遊ぶ場合に以下のことが関わります。

  • プレイヤーとフィクションの相互作用
  • フィクションの内容
  • プレイの目的/動機
  • 選択肢/行動の幅