ゲーム好きな人は、ゲームが趣味で良いのか悩むことがあるのではないでしょうか。
巷ではゲームが趣味というとどうしてもあまり良い印象はもたれず、自分自身も世間の評判が正しいんじゃないかと思ってくることがあります。
本記事では、僕が「ゲームが趣味のせいで…」、「もっと違う趣味があったら…」とゲームに押し付けてきた罪『コミュ障』について考えたことを書きたいと思います。そして、それが果たして事実なのか、たらればの妄想なのか捉え直したいと思います。
皆さんも、僕と”共通点”や”違う点”を発見して、人生とゲームの関わりを分析するのに使ってもらえたら幸いです。
結論のみ知りたい方は解決策をご覧ください。
コミュニケーションが苦手:コミュ障
まずはじめに、僕は人と話したり、人に愛想よく振る舞うことが苦手です。いわゆる”コミュ障”という奴です。
僕はその原因をゲームばかりやってきたからだと思ってきました。
ただし、人生でずっと悩んできたわけではなく、深刻に思うようになったのは就職してからでした。周りの同僚、さらに後輩でさえも上司や年上の同僚と流暢に会話し、気遣いが上手く、人間関係を築くのが早い。そんな中僕はと言えば、会話は何を話して良いか分からず、気が利かず、とっつきにくい奴と思われていたと思います。そうなってくると、やはり仕事が上手く行かず、上司からは怒られ“人格否定”までもされるようになりました。
そこで、「ゲームばかりやってきたからダメなんだ」と思い詰めるようになりました。
じゃあ学生時代はどうだったのかと言えば、あまり悩んだことはありませんでした。スポーツは苦手だったので、クラスでは目立たないグループにいることが多かったのですが、ゲーム好きでも友人はいましたし、学校生活で特に不自由するということはなかったと思います。まぁ、モテないという弊害はありますが。
そのため、学生時代は「別に趣味とか性格とか仕事に関係ないだろう」、「仕事なんて与えられたことを淡々とこなせば良いだけだろう」と甘く見ていました。そのツケが回った結果が、就職後の苦難でした。
「いやいや、ゲーム好きとひとことで言っても色んな人がいるでしょ。」と思われることでしょう。一応補足情報としては、
スポーツが苦手…一応、中高運動部
ゲーム以外興味なし…芸能、スポーツ、流行に全く興味なし
ゲーム以外ではアニメが好き…ザ・オタクです!
といった感じです。
「そもそもここが原因じゃないの?」と思う節もありますので、いくつか説を唱えて何が重要な要因だったのか考えていきたいと思います。
ゲームに時間が奪われた説
僕は小さい頃からゲームに多くの時間を費やしてきました。いろいろなソフトをプレイしてきましたが、特に小学生や中学生のときは時間が大量にあったので、一本一本長い期間をかけてプレイしていたと思います。
1週目が終わったら、2週目で完全攻略を目指して、数年経ってまたやりたくなってプレイするというのは定番でした。
「ゲームが趣味じゃなかったら…」こう考えたことはありませんか?
スポーツが上手ければ、学校でもヒエラルキーの上位にいて、人間関係も華やかで結果的に社会に出ても気力や体力があって、ポジティブな人格が形成されて成功したんじゃないか。
ゲームに使っていた時間をクラブ活動、ボランティア活動など人との交流に使っていれば、社交的な人間になっていたのではないか。
そうでなくとも、芸能やスポーツ、流行りついでに車など一般的な話題に精通していれば、どんな人とでも苦労せず会話ができたんじゃないか。
こういったの空想はとめどないですよね。
しかし、僕はこの説は受け入れがたいところがあります。まず、スポーツに関しては、やらなかったわけではなく幼い頃から苦手でした。かけっこも女の子より足が遅く運動自体苦手意識がありました。家族も親はスポーツに興味がなく、兄は年が離れていたので一緒に遊ぶとしたらもっぱらゲームでした。これは、スポーツが好きになるわけもないしできるようになるわけもありません。
また、幼いころから人見知りで親戚と合うのも苦手でした。くわえて極度のあがり症で人前に立つのが苦手なため、音楽の時間一人で歌わされても断固として歌わなかった覚えがあります。
芸能などの話題に関してもそもそも自分の興味が沸かなかったことが原因です。
そう考えると、時間があるなしの問題ではなく、コミュ障になるべくしてなったと考えられます。となると生まれつきの性格の問題なのでしょうか。
生まれつきの性格説
コミュ障と言うと、生まれつきの性格のようなイメージがないでしょうか。
僕もかつてはそう思っていました。
コミュ障とゲームの関係でいくと直接の因果関係はないと思いますが、ひとりで黙々とやることが多いため、人付き合いが身につきにくいと言えると思います。
確かに前述の通り、僕は小さいころから人見知りで親戚と愛想よく話したりすることは苦手でした。
しかし、人と話すのが苦手であることと、人が苦手であることは別問題です。
友人や家族と話すのはもちろん楽しいですし、僕は初対面の人でもきっかけさえあれば仲良くなりたいと思っています。また人と一緒に何かをするということ自体は好きです。
例えば、音楽やゲームのイベントで初対面の人に声をかけることがありましたし、社会人になってから料理教室や読書会などに参加しています。
ですので、コミュ障だとしても元々基本的に人は好きだし、人とコミュニケーションをとること自体は好きなのです。
「じゃあコミュ障って何なの?」というと、ここでひとつの落とし穴があります。
いわゆる世間で言う”コミュニケーション能力”と性格としての協調性や表現力とは違ったものであるということです。
何が言いたいかと言うと、僕が思い詰めるに至った「コミュニケーション能力がない」というのは性格の問題というよりは、縦社会の生き方、目上の人間との付き合い方といった、スキルやマナーが不足しているということなのです。
このことから、「僕は生まれつき(もしくは成長を通して)性格はどちらかと言えば静かで、物怖じするタイプではあるけれど、生まれつきの性格のせいでコミュ障なわけではない」と言えるのではないでしょうか。
解決策
再び、平田オリザさんの見解をお借りすると、
これが答えだと思います。
そして、僕が社会に出て突然窮地に立たされたのは
“学校という世界”と”仕事(会社)という世界”で必要な能力は異なる。ということに気づかなかった点にあります。
本来学校というのは社会に送り出す人材を育てるという役割があるはずですが、実際の学校で行われる教育と企業で求められている能力に乖離があるというのは事実だと思います。(かと言って学校が企業戦士の生産工場になってはいけないと思いますが)
そのため、学生時代は何ら困らなかったのに、いざ就職してみると能力が全然足りていなかったということが起こりました。
ですので、「ゲームばかりやってきて社会で不適格者扱いされた」という方は、自分自身を責めるのではなく、とにかく慣れることが大事なのではないでしょうか。
まず、マナー本でも買って、飲み会のマナーや挨拶のマナーを押さえておくことやビジネス書でも買って、仕事の報連相などのルールがあるのだと知識に入れておく。もちろんこれは小手先のスキルです。
そして一番大事なのが、人と話す機会を増やしてとにかく慣れるということだと思います。
僕も偉そうなことを言っておいてそんなに人付き合いは多くありませんが、読書会などの趣味の集まりに参加したり、同業者の集まりに参加して意見を交わしたりする機会があるので、少しずつですがそういう場に慣れてきたかなと思えるようになってきました。同僚からも「変わったね」と言われるようになりました。
そして今後は、ブログを通して皆さんと交流できる日が来ることを楽しみにしています
人格否定などの仕打ちに遭って辛いときは、自分の特徴や好きなものに責任を負わせがちですし、他人も人の外面から分かる要素に問題があると思い込みがちだと思います。
この本を読んで、そんな悩みが解決しました。
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