松永伸司『ビデオゲームの美学』のレビューです。
ブログのタイトル、「趣味がゲームと言える」
それがこの一冊で可能になるのではないでしょうか。そのぐらいの価値のある本です。
まず、「ビデオゲームの美学」
このタイトルにゲーム好きの心は鷲掴みにされました。
ブログを作ったタイミングでの発売ということもあり、買うしかありませんでした。
ところが、読んでみると本書はなかなか「上級者」向けの本でした。
まず本書が”どのような本”であるかをお伝えするために、著者の言葉を借りて紹介したいと思います。
~ネタバレ注意~
気になる項目へジャンプしながら読むことをオススメします!
本書の紹介
紹介
本書は、ビデオゲームを広義には美学の観点から、狭義には芸術の哲学の観点から扱う本です。
ビデオゲームはどのような独特の特徴を持った芸術形式なのかという問いに答えるため、ゲームならではの特徴(本書にて「ナラデハ特徴」と表現)を明確に定義された概念群(理論的枠組み)を用いて明らかにします。
この時点でもうすでに、アレルギー反応がでてきた方がいるんじゃないでしょうか?
なぜそんな難しそうな話にするかというと、せっかくゲームの価値概念を作り上げても、自分だけの独りよがりな言葉やイメージを使った説明では、「あんたの勝手な想像でしょ」と言われて終わりです。
そのために、一般性を持たせる(世界中の人が共有できるようにする)ために、本書は学術的な理論を用いて説明しています。
また、著者は議論を丁寧に進めています。本書のスタンスを明確にしつつ、解釈の妥当性や反論の可能性に触れており非常に緻密です。
ポジティブな言い方をすれば、本書に書かれていることは有力な根拠があるものとして自信を持って言うことができます。そんじょそこらの大人では反論できないでしょう。(もちろん理由を説明するには内容を理解する必要がありますが)
意義
本書の意義はおおまかに次の点にあるとしています。
ゲームや遊びの研究に役立てる
ゲームをプレイ・評価する際に役立てる
ゲームを制作する際に役立てる
そして、筆者はそういった実践的な目的よりも
哲学的に考える人に向けて書いたとあります。
僕もゲームについて悩んでいるなか購入し、本書を読んでいくらかの答えを得ることができました。
本記事
記事を書くにあたって本書の内容をそのまま書いたのでは著者に失礼なので、本記事では重要なポイントのみをかいつまんで取り上げ、正しく理解するには本書を買うことをお勧めします。ゲームは趣味にするに値する、ゲームは哲学するに値する可能性をお伝えし、みなさんの力になればと思います。
ゲームは趣味にする価値がある
用語
最初に本書の理解に重要な用語を紹介します。
ビデオゲーム
受容
虚構世界
伝統的なゲーム(将棋、チェスなど)との混同を避けるためゲームを「ビデオゲーム」と表現しています。そのため本記事でも以降「ビデオゲーム」と表記します。
そしてビデオゲームを経験することを芸術評価的な観点から「受容」と言います。
またビデオゲームが作り出す仮想の世界を「虚構世界」と言います。
例.マリオの「キノコ王国」、ゼルダの「ハイラル」など、正確には国を含めた世界すべて
本書では「フィクション」を虚構的な事実を作り出すものと限定しています。以降にインタラクティブなフィクションという言葉で使用しますのでご注意ください。
例.作品としての「スーパーマリオ」、キャラクターとしての「マリオ」ではない
本書の雰囲気を体験していただくために「ビデオゲーム作品の定義」を書きますが、解説なしでは理解できないと思うので興味のある方はご覧ください。アレルギーが出た方はそっと閉じてください。
(1)視覚的デジタル媒体を通して実現される人工物
(2)娯楽的にあるいは、芸術的に受容されることを意図された
(3)その受容のあり方が以下のいずれかであるよう意図された(3a)ゲームのプレイ
(3b)インタラクティブなフィクション
(3c)シミュレーションの受容<引用元:松永伸司.「ビデオゲームの美学」>
ビデオゲームは芸術か娯楽か
上の問いに対して本書は
芸術作品と娯楽作品を区別しようとすることはナンセンスだとしています。
なので、ビデオゲームは娯楽だから芸術じゃないというのは間違いです。
そもそもなんでビデオゲームを芸術として扱うのかについて、著者はビデオゲームはすでに芸術としての受容の慣習があることと、芸術の受容や評価の慣習が明確に成立していることを理由に挙げています。
これが本書で明らかにされたことで、芸術としての立ち位置を確立し、趣味としてのビデオゲームの魅力が上がったのではないでしょうか。
なお、本書ではビデオゲームの「受容」の側面においての芸術性を解説していますが、ビデオゲームの世界に働きかける「行為」の側面の芸術性を見出せるのではないかということについては今後の展望だとしています。
ゲーム行為の質とは何か…、これから考えていきたいですね。
インタラクティブなフィクション
これがビデオゲームの一番の魅力だと思います。
ビデオゲームはインタラクティブなフィクションという特徴を持つ。
分かりやすく言えば、「虚構世界への入り込み」です。
この入り込みには2通りあります。
自己関与:プレイヤーは自分自身が虚構世界にいることを想像し、行為の動機と行為の結果も自分自身のものだと想像する。
ミミクリ:プレイヤーは虚構世界にいる特定のキャラクターの行為の動機を想像して操作し、行為の結果も特定のキャラクターの責任だと想像する。
また、両者はフィクションの観点からの解釈ですが、フィクションからのみとらえることは不十分であると筆者は言います。
それは、クリアするためのプレイ、つまりゲームの目標達成に合理的かどうかを重要と考える虚構世界を想像しない「ゲームとしての受容」がありえるからです。
昔は、ゲームは第三者の観点で見ているから全部ミミクリ的なように考えていましたが、よくよく考えてみると結構自己関与的にプレイしているなと気がつきました。皆さんはどうですか?
やはりビデオゲームが「インタラクティブ*」であること自体がビデオゲームの素晴らしい点であり、映画や本、音楽などの受動的な芸術と一線を画すところです。
どちらの芸術が面白いか、素晴らしいかは別として、僕が小さいころから夢中になってきたのはビデオゲームの「ゲームの世界に入り込み、キャラクターとともに別世界を体験する」ということです。
*相互作用の<デジタル大辞泉>
ゲーム行為
ゲーム行為は「自己目的行為」である。
簡単に言うと、ゲーム行為それ自体が望ましいということです。
どうしてそういう結論になるのか、本書ではテストを使って明快に説明しています。
Q1:押すと欲しい雑貨が手に入るボタンがあります。押しますか?
Q2:押すとそのゲームに勝利できるボタンがあります。押しますか?
Q1はたぶん押すと思いますが、ここで重要になるのがQ2の質問です。ゲーマーにQ2の質問をしたらどう答えるでしょうか。
きっと押さないと思います。
プレイヤーはゲームで勝負するという行為が楽しいのであって、勝利という結果だけ得られてもまったく嬉しくないでしょう。
この純粋に利害関係から独立しているという点が、僕はゲームの魅力だと感じました。
例えば、僕の趣味の読書のうちビジネス書を読むということについて上のテストをやった場合(具体的にはボタンを押すと知識が得られる)間違いなく押します。そりゃ、ビジネス書を読む理由は言ってしまえば仕事のためだったり、社会的な自尊心のためです。知識を得るのは嬉しいですが、読むこと自体は楽しくありません。反対に、小説の場合だと押さない気がします。
現代の社会では、なにかと実用的な趣味、行為にプラスアルファで役に立つ効果が得られるものがもてはやされます。でも、それはなんだか本当に楽しむことを目的としていないようで寂しさを感じます。
この利害関係から独立している点は、広義のゲーム(将棋やスポーツ、ビデオゲームなど)に共通の特徴じゃないかと思います。この観点から、ビデオゲームはコンピュータのスポーツと言えるのではないでしょうか。まさにeスポーツですね。ただ、eスポーツはビジネスの側面があるので利害関係の影響を受けやすそうですが。
ゲームの楽しさとは何か
本書ではゲームの楽しさとは何かという問いについて4つの説を紹介しています。
- 快説:ゲームをすることが快である[古典的論者]
- 学習説:ゲーム行為は「認知のパターンや行為を調整、修正していく過程」
「試行錯誤の経験」が楽しい[井上明人] - 挑戦説:ゲームの楽しさとは、適度な難易度を伴った挑戦である[ユール]
- 美的行為説:ゲーム行為の”感じ”は、それが楽しい行為 – 経験する価値のある行為 – であるという評価の理由になる[松永伸司:著者]
1.は最も一般的に言われている説ですが、「失敗のパラドックス」という問題があります。簡単に言うと、「普通誰しも失敗したくないにもかかわらず、失敗という経験をしばしばするゲームをなぜ好き好んでするのか」という問題です。
これは、ゲームが刹那的な快楽や、現実逃避の快楽であるという表現を否定する根拠になるんじゃないでしょうか。そもそもゲームは楽しいことばかりではなく、いら立ちや苦悩という経験をすることはよくありますが、そこに目を向けられることはあまりないように感じます。
2.3.は直観的に分かります。失敗から対策を練り勝てなかった相手を倒すというのはゲームの醍醐味です。またそれが、できるかできないかハラハラするぐらいの難易度が楽しいです。もちろんどのジャンルのゲームでも当てはまると思います。
4.が著者の説であり、ゲームの楽しさを美的行為の観点から説明しています。
美的行為は、それを行うのに趣味に類比的なある種の特殊なセンスを必要とするものであり、それゆえ誰もがあたりまえのようにできる行為でもない。また、その行為をおこなう仕方が一般化できるようなものでもない。
<引用元:松永伸司.「ビデオゲームの美学」>
また、その経験される質を“感じ”と表現し、明確に概念化できないとしています。
著者はさらに美的行為を大別していますが、続きは本書でご覧ください。
ビデオゲームの殺人について
まず、本書ではビデオゲームでの殺人(バーチャル殺人)の倫理的問題については主旨から外れるところであり、触れるにとどまっていることをご承知ください。
ですが、本書で取り上げられた「ゲーマーのジレンマ」というものに考えさせられたことと、本書の解釈を是非紹介させていただきたいと思いました。
ゲーマーのジレンマ
「ゲーマーのジレンマ」はラミ・アリが定式化したもので、簡潔に言うと
ゲーマーは「バーチャル殺人」は許容できるのに、「バーチャルペドフィリア」が許容できないのはなぜかという議論です。
また、定式のなかでバーチャル殺人が許容可能なのは、その行為によって現実には誰も害を被っていないからであるとしています。
これはどちらもゲーマーの直観として正しいように感じます。
ただし、バーチャルの人の死をどういうレベルのものと想定するで道徳的な重さはかなり違うと思います。本書の補足でも扱われているのですが、ビデオゲームのキャラクターの死を3種類説明しています。
- 「ドラゴンクエストⅤ」のパパスの死 - 虚構世界上の出来事としての死
- 「スーパーマリオブラザーズ」のマリオの死 - 残機数、ゲームオーバーといった出来事が死と呼ばれるケース
- 「Wizardry」におけるロスト - キャラクターの消失などの出来事を虚構世界上の死として見立てるケース
上記のバーチャル殺人はバーチャルペドフィリアと同じ水準で比較していると考えると、1.の虚構世界上の出来事を想定するのが適当かと思います。
そのうえでそもそもバーチャル殺人が許容可能なのかについては、現実の慣習的な許容の範囲と同じではないでしょうか。
例えば、正当防衛としての殺人は決して良いとは言えませんが、仕方なかったと考えられます。多くのゲームは敵がプレイヤー側のキャラクターを襲ってくる。
しかし、正当な理由のない殺人は虚構世界においても不快感を伴います。例えば、ゲームのシナリオに関係なく村人を殺すなどの行為。なので、許容できると言えるかは怪しいところです。「許容」が全く不快感を伴わないことを指すのか、ある程度の不快感はあっても認められることを指すのかによっても答えが変わりますが。
また、バーチャル殺人とバーチャルペドフィリアを比較することは公平ではないと思います。理由として正義や平和、勝利など人々の理想をテーマとして扱う作品は多いと思います。例えば国を守る、世界を救う、覇者になるなど。そうしたテーマにおいては、正義や平和、勝利の代償であり、不可分なものとして人の死が要素として当然含まれやすくなります。
けれども、ペドフィリアという要素が必要になるテーマはなさそうに思えます。逆説的に考えてペドフィリアという代償を払って手に入る快や理想は考えづらいです。
僕は、ペドフィリアを許容できないんじゃなくて、ペドフィリアを許容する慣習がないということが大きな要因なのではないかと思います。
本書の見解
本書では「ゲーマーのジレンマ」の問題を、ビデオゲームにかぎった問題ではなくフィクションの選択の問題であるという見解に賛成しています。
僕も賛成です。
この問題は映画や小説などのフィクションを扱うジャンル全体に関わることで、「なんで殺人を扱ったテーマはOKなのに児童性愛を扱ったテーマはNGなの?」という話です。
たしかにゲームに若干暴力的なイメージがあるのに、映画や小説にはないのは変な気がします。
ゲームばかりがやり玉にあげられるのは不公平ですよね。
メディアの報道の影響でしょうか。
【追記】
本書の知識を活かして、自分なりにビデオゲームの殺人について考えをまとめてみました。
さいごに
本記事では僕の関心の強いゲームの魅力と倫理的な内容について触れましたが、本書ではゲームとの相互作用について深く分析されており、まだまだ魅力が盛りだくさんです。
重要な部分に付箋を貼りながら読んだら、付箋だらけになりました
これだけ付箋を貼ったのは自己最高記録です。
本書は学術的な根拠に基づいた、ゲーマーのバイブルです!
今後本書で学んだ知識をゲームのプレイやレビューに活かしていきたいと思います。