死にたくなった僕のようなゲーム好きに~社会で打ちのめされた人、蹴落とされた人へ~

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僕のような人へ

本記事では、死にたくなったときの経験とそれをどう乗り切ったか、そしてゲームとの関わりの話を書きます。
ただし、自殺一歩手前というほど深刻なものではなかったことや、ゲームがあったから乗り切ったというサクセスストーリーではないためゲーム成分は少なめです。

なぜこのような記事を書くのかですが、本ブログの根幹にある問題だからです。

社会人となり仕事で打ちのめされ、今までゲームばかりして生きていたから「コミュ障なんだ」、「人より仕事ができないんだ」と絶望する日々を味わってきました。それでも、社会人でもゲームを趣味にして生きていく方法があるのではないかと考え、その方法を模索し、僕のような方にアドバイスできればと本ブログを始めたというきっかけがあります。

本記事が僕のように、追い詰められた人の助けになればと思います。

社会人となり、「死にたい」という思いにさいなまれていた時期は、二つあります。

  • 第一の時期は、20代の頃、上司から公然と罵倒され、人格否定をされるという日々が繰り返されていた時期です。
  • 第二の時期は、30代になり出世競争に負け、後輩に追い抜かれた時です。

 

僕は、自分を追い詰める様々な「苦しみ」の解決法として本を読むことをおすすめします。

実際に本記事を書く上で、ストレスの対処法やメンタルの強化法が書かれた本を4冊読みました。そして、感じたことは、追い詰められて絶望している人がそれらの本を読んだとしても、知識を実践する気力なんかきっとない、助からないだろうということでした。

あわせて、独りよがりな経験論にならないよう、自殺未遂を乗り越えた2人の作家の本を3冊読みました。そして、前述の考えを一層強くし、絶望して生きる気力を失っている人は、本を読むよりもまず、心の支えが必要だと感じました。

世の中に苦しみを乗り越える方法が書かれた指南書が多数あることを知った上で、本記事を書く意義はあるのか問われると、自信はありません。僕は経験以上のことを語れませんし、僕に共感する人は少ないかもしれません。それでも、20代の頃の自分を救いたいという思いがずっと心にあり、どうしても書きたいので書かせていただきました。

長文のため、目次からジャンプおよび不要な箇所を読み飛ばしながらお読みください。

第一の時期:上司の罵倒と人格否定の日々

第一の時期は僕の人生で最も苦しい時期でした。詳細は書きませんが、令和2年に改正された『労働施策総合推進法(パワハラ防止対策の義務化)』の指針で言えば、精神的な攻撃の該当例にあたるような行為を幾度となく受けました。

まさにこの文章を書いているとき、突然血の気が引き、動悸が起こり、胸を抑え「これはまずい」と身の危険を覚えたことから、もう終わったことなのに、僕が心に負った傷は思っていたよりずっと深いことを実感しました。

 

その頃、僕の命をつなぎとめてくれたものは、

  • amazarashi(アーティスト)の歌
  • 手を差し伸べてくれる人の存在

でした。

 

社会人になりたての自分はあまりにも無知で甘ったれで、自分の境遇に対して、自責と恨みの負の思考の連鎖から抜け出せませんでした。
そして、自身を省みたときゲームばかりしていた人生に思い当たり、ゲームなんて趣味にするもんじゃないとゲームを心底恨みました。
今となってみれば、筋違いの思考だと考えています。そして、みなさんが同様の思考に囚われないようにして欲しいと思います。

amazarashiの歌

僕が今まともな生活を送れているのは、amazarashiというアーティストの歌のおかげだと思っています。「風に流離さすらい」という歌にどれほど救われたか分かりません。

歌の好きな箇所を下記に引用します。

夢とか希望とか未来は 今の僕にとっては脅しだ その類の漫画 小説 映画 音楽は資源ゴミ 昔は夢もあるにはあった その夢が枕元でほざく 「お前じゃ駄目だ この役立たず 特別と思うなゴミ屑」

<出典:amazarashi『風に流離い』>

このフレーズを一見して、どうしてこの歌に救われたのか理解できないかと思います。この歌は、嘆き悲しんで良い、無様で良い、苦しみはある、そして苦しみながら生きていて良いと教えてくれました。

 

世間では、「苦しみから目を背けろ」、「苦しみなんてすぐなくなる」というアプローチが流行っています。

どうも僕には、「くよくよしていないで、気持ちを明るく持て」、「嫌なことがあっても気にするな」という言葉は、そうできない自分をさらに社会不適合者としておとしいれる脅しのように聞こえます。

“前向きなビジョンを持てば、気持ちも結果もついてくる”

それは、確かに多くの本に書かれているため、本当なのでしょう。しかし、それには天賦の才か指導者か努力の末つちかわれたものが必要な気がしてなりません。

 

特定のアーティストを特別良いものだと言うことが正しいのかは分かりません。人によって感性は違います。ただ、僕にとってamazarashiの歌ほど、「誰にも分かってもらえなかった」、「自分自身で言葉にすることができなかった」苦しみ を言い表してくれたものはありませんでした。

「僕が味わった苦しみはこれだ」、「社会が僕らを苦しめるものはこれだ」、「僕が死にたくなるのはこれだ」そう感じるのです。

そして、社会の弾かれ者になっている自分に「生きていても良い」と、やっと居場所を与えられたような気がしました。

死にたい人を奮い起こせるのは、死線を乗り越えた人だけだと思います。その意味で、amazarashiはこれ以上ない存在でした。

僕には漫画や小説、映画よりも歌が合っていました。暗闇で独り泣きながら聴くことができます。僕は、仕事で打ちのめされて、まっすぐ家に帰れない日がたくさんありました。そんなときは、夜の公園に車をとめ、車内でずっとamazarashiを聞いていました。

反吐吐くような苦しみを肯定し、「それでも希望を捨てるな」、そう言ってくれるアーティストにみなさんが出会えれば良いと思います。

 

書籍『生きながら十代に葬られ』で、自殺未遂の死線を乗り越えた小林エリコさんは、ジャニス・ジョプリンというアーティストとの出会いを革命的だったとしてつづっていますが、苦しみを歌うアーティストだからこそ人を救うことはあるのだと思います。

手を差し伸べてくれた人

もう一つ救いだったものは、「君は悪くない」、「気にしなくて良い」といつも僕を励ましてくれる上司の存在でした。

これは、欲しいと思って手に入れられる存在ではないので、運が良かったとしか言いようがありません。僕は、人付き合いが苦手で、挨拶も仕事の会話も陰気でオドオドしており、同僚と上手く馴染めず浮いていました。

そのため、その上司も最初は僕を嫌っていたそうですが、僕があるとき、「コミュニケーションが苦手なんです。」と吐露したあたりから、気に入ってもらえるようになりました。この発言だけが理由ではないでしょうが不思議なものです。

人に相談すること、人とのつながりが大切であるということは読んだ6人の作家中、5人が書いているほどです。

否定している1人は、人に相談しても悩みは解決しないからと説明していました。しかし、僕は悩みを解決するのは、生きる気力が沸いたあとの話だと思います。

生きるのが辛くて仕方のないときは、誰か話を聞いてくれる人が必要です。ただ、僕のような人は、人に相談すること、自分の悩みを打ち明けること、他人に伝わるように理路整然と話すことが苦手だと思います。

ましてや、家族や友人など親しい人ほど相談しにくいものです。実際、僕は親しい人に「仕事が辛い」とは言えましたが、詳しい事情を話したことはありません。他人から見て不幸な状況であればあるほど、自分の人生が惨めであると思われること、そして、そのことを自分で認めざるを得なくなることが怖くて人に伝えることなんてできないものです。

そんなときは、「いのちの電話*」などの相談窓口があります。いきなりぶっ飛んだと感じるでしょうが、社会に出てから、自分の相談に乗ってくれる人をあてもなく探し回るのは現実的とは思えません。書籍『生きながら十代に葬られ』にて、著者が「いのちの電話」に電話をしていた理由として、相談できる人が周りにいなかった。知らない相手にしか弱音を吐くことができなかった。聞いてもらえるだけで安心したと書かれています。

*いのちの電話は、電話だけでなく、LINEやチャットによる相談もできます。

苦しみの思考:第一の時期

ここから、第一の時期に、自分を苦しめていた思考と「もし今自分が助言をするなら」というアドバイスを書きます。参考になるかは分かりませんし、間違っているかもしれませんが、自分が何に苦しんでいるのか漠然としていたという経験から、みなさんの気づきになれば幸いです。

自分に生きている価値があるのか分からない

そもそも、生物に生きている価値が”ある”も”ない”もへったくれもないので、生きている価値があるのかどうかは自分がどう思っているか次第です。

たとえ「お前に価値はない」と言われたとしても、それは他人が決めるものではなくて、自分が生きたいと願っている限り、また、今死にたいと思っていても過去に生きたいと思っていたとしたら、生きている価値はあります。

気をつけたいのは、”すべての人に自分の価値を認められたい”、”誰からも価値がないと思われたくない”と願うことはやめた方が良いかもしれません。なぜなら、自分以外の不特定多数に存在価値がないと思っている人も大勢いるからです。それを真に受け、わざわざ相手にするのは虚しいだけでしょう。

少なくとも、生きている価値がないと言われて、苦しんで泣いている貴方に生きている価値はあります。

仕事を辞める勇気がない

僕は、仕事を辞める勇気がまったくありませんでした。

そこで、苦肉の策として、「今より楽な職場に移ったら、仕事の技術や大変な環境を生き抜く能力の成長は少なくなる」と考え、「もう耐えられない」と思ったら辞めようと思うことにしました。

そうすると、辛いことも自分のかてになる挑戦としてポジティブに考えられるようになりました。そうこうしているうちに数年が経ち、問題の上司も退職し、あのとき辞めなくて良かったと思っています。

ただ、我慢して辞めない方が良いとは決して思いません。仕事を辞めるか辞めないかの判断において、ビジネスセミナー講師の石川和男さんの基準が明快で参考にすべきだと思っています。

  • 「行動」を注意されたのなら、耐える。
  • 「人格」を攻撃してくる会社は、辞める。

僕の場合、後者だったので、辞めても良かったと思います。むしろ、耐えて、精神を病むくらいなら、早く逃げるべきでしょう。なので、自分を追い込まないように、僕は今でも、「いざとなれば転職しよう」と思いながら働いています。

自分を変えられない

自分を変えたいという思いは、社会に出る前から、ずっとありました。

僕はテンプレの陰キャを想像していただいて、およそ想像の域から漏れないと思います。学生時代は卒業できるだけの成績を修めさえすれば良いので、特段困ることはありませんでした。ところが、社会に出ると、物覚えの悪さ、コミュニケーション不全が露呈し、それが致命的でした。

僕の脳はテストの一問一答のような極めて単純な情報のやりとりには対応できましたが、言葉や表情によるやりとり、複数の工程からなる仕事の流れを覚えるといった、複雑な情報処理はできませんでした。僕は、頭の回転が遅く、よくフリーズを起こし、なおかつ、暗記も苦手で「何度も見直して」覚えるタイプです。いわば、『ウサギとカメ』のカメのような人間です。

僕のようなタイプは頭を使わない戦略が向いていると思っています。

なぜなら、僕の脳内コンピュータはちょっとしたことでフリーズしたり、データが吹っ飛んだりしてしまうからです。
それが、多くの人にしてみれば「話をちゃんと聞かないから」、「考える力がないから」、「やる気がないから」ということになり、自分に合わない指導を受け、自分の感覚とのずれに苦しめられました。
僕のようなタイプはとにかく、考える機会を減らすこと、失敗を見越して保険をかけることが大事だと思っています。
仕事の流れはルーチンワークとして必ず決まった手順で一連の流れ行うように体に叩き込む。指示されたことは、3歩歩いたら忘れるので、徹底的にメモする。など、今では心得はいくつもあります。考えるのは、それができるようになってからだと言うのが持論です。

特に、天才肌の先輩が上手く仕事をこなしている姿を見ると、マネしたくなりますが、カメがウサギをマネしても絶対に上手くいかないのでやめた方が良いです。

 

何より最大の悩みは、人とどう接して良いかわからないことでした。昔から、性格が「変わっているね」と言われていましたが、だからこそなのか、多くの人が夢中になるらしいスポーツ、ドラマ、流行りのあれこれがそれほど面白いとは感じず、ゲームばかりしていました。

また、相手の私生活や、最近あった面白いことなどについての社交辞令的な会話には野暮さと義務感を感じて敬遠してしまいます。もちろん、自分の興味のある人の場合は別ですが。もし、そういう会話をしたとしても前述の通り、他人と関心事が合わないということがままあるので、会話が弾まないのです。
入職後は、そのような理由から、同僚との距離感が埋め難く、孤立しがちで、今でも同僚達が会話で盛り上がっている姿を見ると羨ましく感じます。

しかし、今になってみると、仕事の不器量さも、人付き合いの不出来も、自分を変える必要はないのではないかと考えています。

なぜなら、仕事の得意、不得意に関して言えば、自分と他人では、理解や記憶の癖が違うのだから他人と合わせると、かえって良くありません。また、人付き合いについては、みんなに好かれる必要はないと割り切った方が良いと思います。別に内向的な性格でも、同じように静かな気質の人たちとは話せますし、自分の話を聞いてもらいたい人にとっては格好の話し相手として重宝されます。

そもそも、同僚からの距離感を感じていた原因は、僕が仕事の覚えが悪いことと、鬼上司から標的にされていたこと、それによりいつも暗く沈んでいたことがあります。

なので、仕事ができるようになり、上司もいなくなれば、周りの評価も態度も変わりました。

とは言え、僕は自分を好んで話しかけてきてくれる人とだけ話すと割りきって、職場で静かにしています。

みんなと仲良くなろうと無理に明るく振る舞い、「話さなければ」、「何を話そうか」と心を砕くのは馬鹿馬鹿しいと思うようになったからです。

メンタリストDaigoの著書『ストレスを操るメンタル強化術』では、内向的な人は、知的作業が得意で、自制心が強く、発想力があり、感受性が豊かだと書かれています。
内向的な性格だからこそ、ひとりで地道にコツコツと続けて大きな仕事を達成した経験があります。

だから、自分を変えたいと苦しむ貴方も、自分らしく成長し、自分のままでいて良いと思います。

なぜ自分はいつもいじめられるのか

僕は、中学ではいじめに遭い、高校では友達ができず孤立していました、そして、社会に出ても同じ目にあったことには、自分の人生を悲観せずにはいられませんでした。

となると、自分にいじめられる原因があるのだろうと思います。

しかし、それでも僕は自分の性格を変えるというアプローチが良いとは思えません。

なぜかと言うと、ひとつには、性格は抽象的なものじゃなく物理的なものであり、例えば「僕の脳はこういう情報が入ったときに、意識に表れるよりも前に、瞬間的にこういう反応をする」という細胞レベルで形作られているため、到底変えられないと感じたことと。もうひとつには、自分を無理に変えることが幸せにつながるとは思えないことがあります。

だからこそ、自分の性格のまま強くならなければならないと思います。

僕は、いじめられるのは、弱いからだと思っています。

世の中には、他者を傷つけることをなんとも思わず、人を平気で利用し、蹴落とせる下品な人がいます。はっきり言って社会の中では、そのような人たちは、自分を縛るものや良心の呵責かしゃくがないため強いのです。― 佐藤優『メンタルの強化書』にて「三かく人間」と表現 ―

ところが、僕は馬鹿だったので、「自分は弱い!強くならなければ!」と思うべきところを、次のように考えていました。

  • 「自分は謙虚でおとなしく、耐え忍ぶ善人だ」…というのは、現代でも、おとなしく我慢強い人が立派なような印象を受けます。自分としてもそのように振る舞っているほど、偉くなった気になってくるのです。いわば「負けるが勝ち」というルールを勝手に主張しているだけです。
  • 「人権を侵害するやつらが悪い、自分は正しい!彼らが間違っている!」…当時の僕は、人は平等であり、誰からもとやかく批難される筋合いのない神聖な権利をもっているような気がしていました。だから、職場でひどい扱いを受けていても、彼らは僕を平等に尊重すべきなのにそうしないことに問題があると考えます。

そして、自分は正しいので変わる必要がないと、すっかり信じていました。

しかし、弱者が虐げられるというのは自然なことです。僕は、自分の弱さに目を隠して、人権侵害という想像上の越権行為に腹を立てていました。

相手が同じ倫理の土俵にあがっていれば、善悪や正義の考えに訴えても良いでしょうが、そういったものは人によって異なるという意味で空疎なものです。

早く自分が弱いということに気づき、強くならなければなりません。そうしなければ、たとえ職場を変えたとしても同じ目に遭いかねません。

僕はそのことに気づくのにあまりに時間がかかりました。

強くなるにはどうすれば良いのか分からなかったというのも理由のひとつかも知れません。

それに、過去を客観的に見られるようになって思うことは、故意だろうがわざとじゃなかろうが集団の足をひっぱる若者を辞めさせようとすることは、強者の理論において正しいだろうということです。

ただ、僕はそんな理論は絶対に許せないので、強者の足をひっぱったとしても、弱者が生きる権利はあると言い張ることに決めました。

仕事よりも大切なものがある

僕は仕事より家族や友人、趣味の方が大事だと思っていました。

そして、何のために働くのかという意義を、お金をかせぐためという、興ざめする答えしか用意できませんでした。

仕事は社会を回すことで、社会の役に立つことだというのを聞いてはいましたが、それが人生の満足感に影響するとは思ってもみませんでした。

誰かの役に立ちたいと願うことは、立派とかそんなんじゃなく、本質的に人間に備わっていることであり、空腹を満たしたいというのと同じくらい自然な欲求で、欠かせないものです。

それは、家族や友人と楽しく遊んでいるだけでは得られないものです。

だから、家族や友人、趣味は確かに大切ですが、それが仕事に対して無気力で良い理由にはなりません。

出世とか成功とかはさておき、仕事が一人前にできないと感じることは、人生の満足感を減らすかもしれません。

読書との出会い:樺沢紫苑『読んだら忘れない読書術』

辛い時期を過ごす中、「どうして誰も助けてくれないんだ」、「漫画やドラマみたいに誰か僕を導いてくれる指導者がいてくれたらな」と思うようになり、本を読めば良いのではないかと気づきました。

しかし、本なんて年に1冊読むかどうかの僕は、正直言って読書に苦手意識がありましたし、本には読み方があるなんて思ってもみませんでした。

そんなときに、1冊の本に出会ったことで運命が変わりました。

精神科医の樺沢紫苑『読んだら忘れない読書術』という本で、

  • 本を読むのが遅い
  • 苦労して読んでも、全然記憶に残らない
  • 本をどう選んだらいいのかわからない

などの悩みが解決し、僕の「読書」の概念が一変しました。そして、気がついたらkindleを購入し、書評サイト『ブクログ』にアカウントを作成していました。

本書に「読書は、最後の切り札」という言葉があります。読者のみなさんにぜひ伝えたいことなので引用します。

自分一人の力で人生を変えようとするから、多くの困難に直面し、うまくいかなくて悲観し、絶望するのです。一人の人間の経験や知識はちっぽけなものです。しかし、読書によって、先人、偉人たちの「2000年以上の叡智の結晶」の力を借りれば、不可能なことなどなくなるでしょう。

<引用元:樺沢紫苑『読んだら忘れない読書術』p.248>

そして、本の読み方を知った僕は、今まで100冊以上の本を読み、レビューも書きました

ただし、第一の時期は結果的に言うと、読書の効果はまだ現れず、ボイスレコーダーをポケットの中で握りしめ、amazarashiや周囲の人の支えのおかげで、耐えきりました。

第二の時期:競争の挫折感

第一の時期は周りの人の反応を見る限り、僕のダメさをはかりにかけたとしても上司の側に大きな問題があると考えて差し支えないと判断しています。

しかし、第二の時期の場合は出世争いに負け、「競争に負けた」、「後輩に追い抜かれた」と自分の不甲斐ふがいなさを責めずにはいられませんでした。また、仕事の成功が人生に大きな価値を持つという意識は拭えませんでした。

落選の直後は「別に昇進できなくてもいいさ」とカラ元気を保てたつもりでしたが、本で学んだ賢人たちの知恵も特効薬とはならず、だんだんと仕事をするのが辛くなり、「もうダメだ」と思うところまでいきました。

そのときに、頭を巡っていた思考を書きます。最近の思考なので、アドバイスではなく、僕の自問自答としてお読み下さい。アドバイスを書けるのは40代になってからかも知れません。

苦しみの思考:第二の時期

地位なんて出世なんて空想だ

それが想像の価値だとしても、能力が劣っているのは現実である。


仕事が人生のすべてではない

確かに家族も趣味も大切だが、仕事の成功も大切である。なんだかんだ言っても世間では、仕事の成功の観点で他人の人生の出来栄えを採点しがちである。

「出世しなくても良い」と思ってきたが、こんなに悔しくてつらいのかということを、今回そういう境遇になって初めて痛感した。何より、これから職場で敗者として見られ続けると思うと辛くてたまらなかった。


感情とは化学物質の伝達に過ぎず一時的な生理作用だ

感情は移ろうもので、例えば突発的な怒りはアドレナリン(興奮物質)の放出ピークを過ぎるのを待てばおさまる。しかし、苦しみの原因はコルチゾールというストレスホルモンだと知っていても、そう理解したところでこの挫折感は何週間経ってもおさまらない。

なお、自殺衝動は時間を待てば収まる部類の感情である。

何か他のことに夢中になれ

ゲームのブログを運営し趣味に打ち込んでおり、それは確かに喜びをもたらしてくれた。


運動や瞑想を行い、充分な睡眠をとり心身を整える

ブログの企画として有酸素運動を毎日10分しており、コロナ対策として睡眠時間を充分にとる生活を送っていたため、体調に関しては問題なかった。

瞑想は以前に企画として行ったが、うまくいかなかったことから、一朝一夕に実践できるものではないと感じた。


諦めず、自己成長を糧に生き続ける

自己成長を続けても、とうとう最後まで報われない人生を想像したときにそれで良いのかわからない。


人に相談する

鬱はだんだんとなるのではなく、突然ぐしゃりといくことを目の当たりにしていたので、誰にも相談せず手遅れになってはまずいと思い、奥さんに自分が「最近うつっぽい」ことを伝えた。

心配され幾分か楽になったことには、身近な存在を心強く感じた。


死にたい?

今の状況から逃れたい一心で、死にたいと思ってしまうということはままある。

本で学んだことによれば、人は直近のできごとを過大評価して将来のことを過小評価する傾向があり、今の苦しみが人生のすべてのような気になってしまうので、将来に目を向けなければならない。

また、シェリー・ケーガン『「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義』によれば、死のデメリットは生きていれば経験できるはずの良いことを剥奪はくだつされることにある。そう考え、これからの人生をじっくり考えてみたときに、人生のあらゆる時期や場面に小さな楽しみが散りばめられているような気がしてきた。また、将来発売される新型ゲームで遊ぶことを想像すると死んだらもったいないと思い、逃げても良いけど死ぬのはやめようと考えた。

読書による救い

この苦しみのタイミングを狙ったかのように出版される本がありました。

樺沢紫苑『精神科医が教える ストレスフリー超大全――人生のあらゆる「悩み・不安・疲れ」をなくすためのリスト』です。

滑稽な話ですが、本書は「死にたくなったときの対処法」は書かれていましたが、僕の知りたいことは死にたい気持ちの対処法ではなく、今自分を追い詰めている苦しみの対処法でした。

苦しみの原因である競争心や嫉妬心をなんとかするため、本書の「他人と自分を比べない方法」という、うってつけの内容が書かれたページを読みましたが、その対処法は「もう知ってた」という話でした。僕は、樺沢先生の運営する樺沢塾に入っているので、当たり前かもしれませんが。

それでも、答えを知っている賢人がいるだろうと信じ、「嫉妬」をキーワードに、佐藤優『嫉妬と自己愛「負の感情」を制した者だけが生き残れる』山内昌之『嫉妬の世界史』を購入しました。

この2冊を読み終わったとき、「嫉妬って怖いなー」というほうけたような思いとともに、憂鬱な気持ちがなくなっていました。

突然の展開に拍子抜けしてしまったことと思います。僕もこのときは、なぜ強烈な苦しみから脱出できたのか分からず、驚きましたが、

想像するに、

  • 「競争意識・嫉妬」というものが何であるか理解が深まった
  • 自分を客観的に見ることができた
  • 「競争意識・嫉妬」に自分や世間の人々がいかに支配されているかを知り、職場のライバルや上司も例外ではないと気づいた
  • 正体不明の強大な敵だと思っていた「競争意識・嫉妬」の正体が突然小さなものに感じた

そんな風に思っています。

「嫉妬」について学んだこと

みなさんに前述の本から学んだことをお伝えします。

「競争意識・嫉妬」は自分が人より優れている(幸せだ)と快を感じ、自分より優れた(幸せな)者を見ると不快を感じるという生理現象です。その機能がないと、自分が劣っていても不遇でも平気なわけですから、自然の中では、エサや住処すみかを奪われ、または襲われて死んでしまいます。

それが、人間の生存と繁栄に役立ってきましたが、現代社会においては、他人よりも劣っているからと言って死ぬわけではないので余計な機能とも言えます。むしろ、怨恨によるトラブルや犯罪の火種になるので厄介者でさえあります。

ただし、SF小説のジェイムズ・P・ホーガン『ガニメデの優しい巨人』において、人類と異星人の例えを使ってこの人間の性質に関する洞察が為されており、競争心のメリットが書かれています。

「競争意識・嫉妬」を持つ人類は、「競争意識・嫉妬」を持たない”社会のために自分の適材適所に応じて役割を果たすことが喜びと感じる”性善説のような異星人と比べて遥かに短期間で劇的な文明の発展を遂げるというものです。

ですから、「競争意識・嫉妬」は人を害する方向ではなく、原動力、パワーとして使えば役に立つのでしょう。

 

これらのことから、次のように考えることにしました。

世間の人が言う「人を羨んだり、妬んだりするのは良くない」というのは誤りで、そんな風に思うのは自然なこと。

自分が「競争意識・嫉妬」に駆られたら、尿意を催したのと同じように、「あっ、また嫉妬心を催しちゃった」と思うことにしよう。

今は無理かもしれないけど、「競争意識・嫉妬」を上手くコントロールできるようにして自己成長のパワーにしてみよう。

頑張り続けても、とうとう最後まで報われないとしたら

また、頑張り続けても努力が報われないことをどう捉えれば良いかという問題について、佐藤優『メンタルの強化書』に答えが書かれていました。

それは、「諦める」ということです。

資本主義の強者達は、常に努力して上を目指すことが美徳であると賛美し、夢や希望というエサをぶら下げて労働者を馬車馬のようにこき使います。

そんな強者の理論で作られたものが、「自己責任」という論調です。貧困層や社会的に排除された人たちは、努力を続けてこなかったから自業自得だというわけです。でも、よくよく考えてみると、人間は才能も育った環境も平等ではありませんから、おかしな話です。それに小林エリコさんのように、いじめや社会的虐待によって、負け組におとしいれられてしまうのは自己責任とは到底思えません。

様々な失敗を得て自分の限界を知り、結果が報われないことは当然と考える。そして、柔軟に諦めて、次の挑戦を始めると良いと書かれています。

だから、僕は、とりあえず出世は諦め、それでも今仕事でやりたい事があるからそれを成し遂げよう。働き方は、仕事一本に絞らない副業というスタイルもあるし、今の仕事以外に興味のある仕事に目を向けて、転職も視野に勉強してみようと決めました。

結論

人生に絶望し、「この状況から逃げられない」、「どうしたら良いか分からない」と思っているとき死にたくなります。

その苦しみを減らすには、趣味や運動、自己成長志向は役に立つかもしれませんが、苦しみを解決するには、根本原因に目を向けるしかありません。

そうしたとき、自分の力ではどうにもならないことが多いでしょうが、本を読み賢人の知恵を借りることで、一挙に解決とまではいかずとも、解決の道標ができることで希望を見出すことができます。

もし心が折れて、立ち上がれなくなったときは、

誰か手を差し伸べてくれる人、話を聞いてくれる人、あるいは多くの苦しみを乗り越えたアーティストや作家などの先駆者が再び立ち上がる力をくれるでしょう。

 

~amazarashiの歌より~

「雨にも負けて 風にも負けて 雪にも 夏の暑さにも負けて それでも人生ってやつには負けるわけにはいかない」

<amazarashi『ワンルーム叙事詩』>

 

「誰だってヒーロー そんな訳はねえよ いわゆる掃き溜めの ありふれた有象無象 そこで負けねえと 言ったもん勝ちの よくある強がりの いつだってヒーロー」

<amazarashi『ヒーロー』>

ゲームが趣味で良いのか

ここまで来てようやくゲームの話をしますが、「ゲームが趣味で良いのか」という問題はゲーム好きにとっては切実です。

第二の時期は、

  • 趣味より仕事を優先し、仕事に手を抜かなかった
  • ゲームで睡眠を削ったりせず、健康に気をつけていた

ため、偶然にも、純粋にゲームをすること自体が良いかどうかを確認するチャンスとなりました

ゲームは苦しみを解決こそしてくれませんでしたが、憂鬱な時期もポジティブに続けられていました。

そう考えると、ゲームは仕事に害になるものではなく、むしろ日々の楽しみであり、活力・目標を与えてくれる趣味として優秀ではないでしょうか。

だいたい、もしゲームをしていなければ、もっと自分は優れた人間になっていた、または、人生が充実していたという考えは的外れでした。

僕は、誰に強制されてゲームをしていたわけでもなく、誰かに合わせてゲームをしていたわけでもありません。だから、ゲームは自分の気質に合っていたのだと思います。

ゲームがなかったら、僕の人生はもっと張り合いのないものになっていたかも知れません。

子供の頃に、大人になってもゲームを趣味にしていたいと夢見ました。ただそれだけの夢が、こんなにも得難く、まさか自分を苦しめるものになろうとは思ってもみませんでした。

きっと、多くの人が社会で生き残るために大切なものを捨てるのでしょう。僕のように自分への絶望からか、世間体からか、はたまた生活の忙しさに追われてか。

しかし、趣味を取り戻した今、ゲームという遊びが「自分はこれが好きだ」という自己表現の場であり、世間とのしがらみに折り合いをつける「戯れ」として必要であると分かりました。

だから僕は、この経験から自信を持って、

社会人がゲームを趣味にしても良い。それどころか、ゲームが好きならどんどんやれ!

と言わせていただきます。

参考書籍

以下、タイトルをタップ(クリック)すると商品ページに飛びます。

読書術

樺沢紫苑『読んだら忘れない読書術』

運命を変えた1冊。

読書術の本はたくさんありますが、樺沢先生は速読や大量に読むことを勧めるのではなく、1冊1冊の読書の質を高めることを推奨しており、当時流行りの読書術を真っ向から否定していて衝撃を受けました。

読むのが遅い僕のような人にこそ向いていると思います。

メンタル強化、ストレス対処法

樺沢紫苑『ストレスフリー超大全』

ストレスの万能攻略本 5.0
※あくまで、個人的な評価です。


佐藤優『メンタルの強化書』

哲学的な貴方に 4.0


メンタリストDaiGo『ストレスを操るメンタル強化術』

論理的な貴方に 4.0


Testosterone『心を壊さない生き方 超ストレス社会を生き抜くメンタルの教科書』

筋肉を愛する貴方に 3.0

体験談

小林エリコ『この地獄を生きるのだ うつ病、生活保護。死ねなかった私が「再生」するまで。』

参考書籍の中で最も感銘を受け、人生観が変わりました。

なぜ著者がこれほど過酷な運命を強いられなければならなかったのか、社会の不条理さに憤らずにはいられません。そして、僕は著者に多くのことを教わりました。

「大人時代の苦しみ」を主題にした作品


小林エリコ『生きながら十代に葬られ』

上の書籍を読み、すぐに本書を購入しました。

オタクの僕は親しみを感じながら読めました。

本記事で取り上げた運命的な歌手との出会いが綴られています。そして、絵を描くことが好きだった著者の絵との向き合い方に、「好きなこと」が人生にもたらす意味を教わりました。

「学生時代の苦しみ」を主題にした作品


モカ『12階から飛び降りて一度死んだ私が伝えたいこと』

生きるのに一生懸命すぎる貴方、ジェンダー・アイデンティティーに悩む貴方に

嫉妬

佐藤優『嫉妬と自己愛 「負の感情」を制した者だけが生き残れる』

嫉妬の苦しみを解決してくれた良書。5.0

― 傷つきたくないから、競争しない ―
若者の「自己愛」に異常が起こっている現状が考察されており、興味深く読めました。


山内昌之『嫉妬の世界史』

佐藤優氏の書籍にて推薦されていたため購入しました。4.0

嫉妬の明快な定義が書かれています。

女の嫉妬よりも、男の嫉妬にこそ注意しなければなりません。

amazarashiに興味をもった方へ

amazarashiの曲はYouTubeの公式チャンネル『amazarashi Official YouTube Channel』にて無料で視聴できます。

メインの曲はほぼ公開されていますが、僕の個人的に好きな曲にはYouTubeに上がっていないものもあるため紹介させていただきます。

苦しいときに聴く推薦アルバム

『メッセージボトル』

amazarashiのベストアルバム

<推薦曲>

ヒーロー

YouTubeにて公開されています。

この歌は英雄になりたいと妄想することをやめない僕らの鼻面を蹴り飛ばし、敗者の戦い方を教えてくれます。

ワンルーム叙事詩

最近、幼い子どもが宮沢賢治『雨ニモマケズ』を朗読する映像を流している番組がありますが、雨にも負けず、風にも負けず、どんな苦境にも負けない人間を賛美しているのかと思うと吐き気がします。

もちろん、それは穿った見方かもしれません。僕も愚かな20代の時は冒頭の節が好きでしたが、平田オリザ『下り坂をそろそろと下る』を読んでからは、❝日照りの時は涙を流し、寒さの冬はオロオロ歩き❞の節が好きになりました。

僕のような弱い人間は、何百回と負け続け、馬鹿にされ、それでも涙を流しながら何度でも立ち上がる勇気を持たなければなりません。それには、まず負けることに耐えられなければ話にならないでしょう。

 『ねえママ あなたの言うとおり』

<推薦曲>

風に流離い

本記事記載、僕の最も好きな曲です。

「無気力のまるで生きている死体」だろうが、ゾンビのように首の皮一枚繋がっていれば、僕は何度でも立ち上がる。そう決意させてくれます。

ジュブナイル

YouTubeにて公開されています。

10代の若い貴方へ

パーフェクトライフ

小学生や中学生の時には、僕は完璧主義でした。完璧を求める心は自分自身の不完全さを責め立て「お前の人生は失敗だ」と宣告し、人を「死にたい」気持ちに駆り立てます。

「諦める」ということに着地点があるとしたら、この歌のような形ではないかと思います。