「プレイ・マターズ」を読んで-遊び観・ゲーム観を変える一冊

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あなたの遊び観、ゲーム観が間違いなく変わる一冊
ミゲル・シカール『プレイ・マターズ』

なお邦訳は「ビデオゲームの美学」の著者、松永伸司です!

「ゲームは遊びか芸術かスポーツか」

という問いを投げかけたとき、

「ゲームは遊びでしょ」

と返す方が、おそらく多いことでしょう。

しかし、2018年にゲームの芸術性について書かれた松永伸司「ビデオゲームの美学」のように、“ビデオゲームは芸術である”という認識はゲーマーの中でも広まりつつあると思います。

そして、e-スポーツが注目を浴び、実際に「全国都道府県対抗eスポーツ選手権」、「全国高校eスポーツ選手権」などメーカー以外が主催する全国規模の大会が発足を始め“ゲームはスポーツである”という認識もこれから浸透していくのではないでしょうか。

僕自身いちゲームファンとしてゲームに対するこれまでの不遇な扱いに悩んでいた中、「ビデオゲームの美学」を読み、ビデオゲームが芸術であるとの提言に感銘を受け、歓喜しました。

ゲームは遊びであり、芸術であり、スポーツでもあり一つに定義できないものと考えていました。とは言いつつも、芸術という響きは魅力的でした。

ところが、プレイ・マターズでは、

ゲームが重要なのではない。遊びこそが重要である。

ビデオゲームは遊び道具のほんの小さな部分集合に過ぎない

と言った提言がなされています。

これらは非常にショックでしたが、本書を読み進めるうちこれらの発言が見当違いではないこと、そして、自分のゲーム観を改める重要な視点であることに気づきました。

<補足>

「ビデオゲームの美学」では、決してゲームは芸術だから娯楽ではないと主張しているわけではなく、どちらでもあるというのが正しい。
「プレイ・マターズ」はゲームを批判した書ではなく、著者自身ゲームファンであり、批判的な発言は問題提起と考えるべきでしょう。

遊びとは?ゲームとは?

「そもそも遊びって何?」と聞かれると首をかしげてしまいますよね。

本書の冒頭に投げかけられる質問ですが、「気晴らし?」「ゲーム?」「子供のやること?」などなど、

確かにそんな気がします。

しかし、本書を読んで遊びとは何かを考え、自分なりの一応の答えを見つけました。

まず、本書では、何と言っているのかと言えば、

『遊びは、秩序と混沌を行き来する運動である。』

えっ?…カオス。。。

本書を読めば、非常に的確な表現だと思いますが、「さっぱり分からん」ですよね。

本記事では、あくまで僕が本書を読んで「遊びとは何か」を考えた形跡を記して起きます。

なので、

「こんな知らんおっさんが考えた妄想に興味ないわ!」、
「遊びの良質な哲学を知りたい」という方は、本書を読むことをおすすめします!

遊びとは

最初に、本書の遊びの概念を自分なりに拡大解釈したことをご承知下さい。

遊びとは、能動的な(自分からやりたい!と思う)ものだと考えました。

それを考える上で、人が根本的に求めるもの、特に喜びを感じるものに焦点を当てて考えました。

  1. 人との繋がり
  2. 知らないことを知る
  3. 身体的感覚
  4. 世界に自己を反映させる
  5. 世界を広げる

1.人との繋がり-根源的に人と親密になることに喜びを感じるというのは直感に反していないと思います。親子、友情、恋、など。また、他人の感情を引き出すことも喜びではないでしょうか。喜ばせる、悲しませる、驚かせる、など。

2.知らないことを知る-これは好奇心探求心と言ったほうが良いかもしれません。知らないモノ、コトがあると気になりますよね。とは言っても、大人になると「どーでもいいや」と思ってしまうことが多いと思うので(駄目ですね歳を取ると(汗))、例えば、観光旅行などは、そんな大人でも珍しさや未知の経験にワクワクします

3.身体的感覚-本書では”遊びの美”として、例えばトップアスリートのパフォーマンスを見る時、”身体で感嘆する感覚”という表現をしているのでそちらから着想を得ました。これは自分がスポーツをしているときに、筋肉の刺激やバットやラケットでボールを弾いたときの感覚が快であるというのは、分かる気がします。また、人のプレイを見ているときにその動作を自分の肉体に投影した感じ、または卓越したパフォーマンスに感動するという経験は誰もがしたことはあるのではないでしょうか。

4.自己を反映させる世界を自分の好ましい在り方に変える試みのことです。例えば、部屋やスマホのデザインを自分の好きなものに変える。より過激なものであれば好きな人・モノを集め、嫌いな人・モノを排除する。

5.世界を広げる-知る喜びを好奇心と書かなかった理由がこれを書くためです。原始的なもので言えば、人間が砂漠や寒冷地帯など過酷な環境を前にしてもナワバリを広げようとする渇望。また、可能性を広げるという意味合いも込めています。不快な経験を伴ってさえ挑戦したいと思うこと。「できない、くやしい…もう一回!」という感覚。一種の好奇心だとは思うのですが、より挑戦的な人間の本質だと思っています。

 

これらの「自分の能動性を発揮し、世界に訴えること」が遊びだと思います。

こんな甘いも辛いも酸っぱいも一緒くたにしたような発想は腹壊しそうという方…分かります(笑)
話半分にお聞きください。

そもそも、”遊び”という言葉があるのは遊びとそうでないものを区別するためです。

僕は、美術(創造的で身体的な活動においてより創造的なこと)
やスポーツ(創造的で身体的な活動においてより身体的なこと)
も政治活動(自分の価値観を世界に訴える)
や犯罪(暴力的に自分の価値観を世界に訴える)
も本質的には遊びであり、能動性から生じるあらゆることは遊びであり得るような気がします。でも、それじゃ何がなんだか分からないのでなにかしらの価値判断に基づいて物事が定義されています。

例えば絵を描くことで言えば、遊びと呼ぶにはもったいない賛美されるような絵を描くことは”芸術”で、人の迷惑になる場合は”落書き”など、言葉による隔たりが生まれます。

さてそうしたときに、遊び=自分の世界の反映をみんなが好き勝手にやってしまうと、集団生活が成り立たない、犯罪が横行する(混沌)という事態になって困るので、ルールや決まり(秩序)を作ります。

こう考えると

『遊びは、秩序と混沌を行き来する運動である。』

という意味が少し分かるような気がします。
※細かい部分で著者の解釈と異なるので、ご注意ください!

余談ですが、この言葉はニーチェの言葉に基づいているので、同じくニーチェの言葉を借りると「赤児の我欲する」つまり、幼いこどものような創造力が溢れ出る感じはまさに”遊び”と言えます。ニーチェは人間の本質について深く理解していたのでしょう。

人は社会のルール、ゲームのルールに従いながらも、自分の好ましい在り方に世界を創り変えたい!、型破りなことをしてみたい!というバランスをとりながら遊んでいると言えます。

ビデオゲームの遊びとは

お待たせしました!ではビデオゲームの話をいたしましょう。

僕は本書を読んで、ハッとさせられたことは

遊びの本質を知り、自分がなぜゲームが好きなのか、楽しいのか、またなぜ楽しくなくなったのかと思うのかに気づいたことです。

少年時代を振り返ってみたとき、

幼い頃はじめてドラゴンクエスト、ファイナルファンタジーの広大な世界を目にして、家や学校だけの狭い世界が急激に広がり、新たな世界を知る喜びを感じました。

また、電子的な遊びの快、コントローラの十字キーを撫で、ボタンを押し込む操作する快、画面上のカーソルが効果音と共に動く快などの独特の快感がありました。ドットやポリゴンと言ったゲーム的な映像、それ自体が楽しいものでした。

そして、ビデオゲームならではの”ゲームの世界に働きかける”行為は、ゲームを通して広義の遊ぶ(世界を広げ、操作感、映像、音楽を通した感覚的な快を味わう、ゲームのキャラクターを生きる、または生かす)を体現していました。

しかし、僕はゲームの形式的なもの、つまり、アクションゲームのジャンプや攻撃を使ってゴール目指すスタイル。RPGの世界を順番に進みレベルを上げてボスを倒すスタイル。それらの形式が面白いのだと錯覚していました。

これは本書で強く訴えられていることですが、形式(遊びのルールやゲームのシステム)は遊び本来の性質(創造や世界に自己を反映する)に反しています。

代わり映えしない形式は、たとえフィクション上の世界が違ったとしても、結局は同じような世界であり、世界を知り、広げる喜びを感じない。ゲームのシステム上の制限により、例えば人と繋がることや、自分を反映するということは、技術的な進歩が見られるもののまだまだ難しいと思います。

そのため「自分はゲームが好きなはずなのに何で楽しくないんだ!?」という感覚にいつからか襲われるようになりました。

そう言ったことを考えている最中、

例えば、僕のビデオゲームの殺人で書いた、ダークソウル3などで仲間NPCキャラクターを殺さないスタイルは僕のゲームのルールに対する混沌的な遊びなのだと気づきました。

本気でゲームのキャラクターを殺してどうにかなると思っているわけではなく、制作者の仕掛けた”殺せる”という可能性に対する「だが断る!」という反逆、またキャラクターに善良であって欲しい、自分の善良さを反映したい(ちなみに僕は善良ではありません(笑))という遊びから来ています。

かの有名な「【マリオ64実況】奴が来る【幕末志士】」のスーパーマリオ64で1upキノコから逃げるという遊びもゲームのシステムに対する反抗であり、彼ら流のスタイルを反映した遊びだと思います。(「ビデオゲームの美学」にて魅力的なゲーム行為として例示されていたのを参考にさせて頂きました。)

これらのことから、自分はどう遊ぶのが好きかということを振り返ってみる。そして、どう遊びたいかを考えることが重要ではないでしょうか。

この遊びという広い世界の中からビデオゲームを見るという視点を与えてくれた本書は、ゲームの芸術性に縋り付こうとした自分の目を覚まさせてくれた一冊でした。

コンピュータ時代に生きる私達は、「システムを遊ぶこと(playing systems)」と「システムで遊ぶこと(playing with systems)」の両面から遊びをとらえる必要がある。

<引用:ミゲル・シカール『プレイ・マターズ』.p156>

<補足>
前者はゲームのルール、システムを楽しむ(秩序的な快)という意味であり、後者はゲームの場を自分自身のものに変える(混沌的な快)という意味を指します。

では、さらに突っ込んでみます。
頭をオーバーヒートさせて、震える手で打ち込んだ答えです。

ビデオゲームの遊びとは、「コンピュータを使う」ことと、「コンピュータ上のフィクションの世界に働きかける」二方向の自己表現(遊び)が可能になるという特筆すべき特徴を持つ

と同時に、ゲームのルールコンピュータのシステムによって表現の制限を受けるという特徴を持った遊びではないでしょうか。

注意すべきは、コンピュータは短所だけではなく、高速な計算により、創造を手助けし、可能性を広げるという長所を持ち合わせています。

最後に

形式を否定したことから、ビデオゲームを芸術として捉えることや、スポーツとしての広まりは「”型はめ”的で良くないの?」と思うかもしれません。

僕としては、芸術やスポーツとしての実践が為され洗練されていく動きは好ましいものだと思っています。それはビデオゲームの理解を深めるものであり、これからゲームを遊ぶ多くの人達の楽しみを生み出すものだと思うからです。

しかし、もしも「ゲームはこうプレイ/受容*するのが正しい」、「こうプレイ/受容しなくてはならない」という流儀のようなものが生まれたとき、それに囚われてしまうと、能動性が失われたそれは”遊び”ではなくなり楽しいものではないかもしれません

*芸術として受け取る

実際、学ぶことは楽しいですが、カリキュラムという型にはめられた勉強が楽しくないことはみなさん身をもって知っていることでしょう。

それでも、遊ぶということを忘れなければ、ゲームを楽しみ続けることができると思います。これからゲームの地位の高まりが僕たちに果たして何をもたらすのか、注視していきたいと思います。


「え?結局どのくらい素晴らしいのか分からない?」

付箋を52枚貼るくらい素晴らしいです!!

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【追記】
私のブログは本書の内容を紹介するというより、本書のメッセージから自分が考えた事柄を書きました。

そのため、書評としては適切ではないと思います。

本書でなされる遊びの分析を正しい解釈のもと記述している下記サイトが素晴らしいと感じましたので紹介致します。

『プレイ・マターズ 遊び心の哲学』感想文 - ビデオゲームとイリンクスのほとり
面白かった。特に最後の方のチャプター7「デザインから建築へ」とチャプター8「コンピュータ時代の遊び」の各章は、ほとばしるドライブ感が楽しい。挑発される気持ち良さがあった。 本書はゲームについての本ではなく、「遊び」を主題としている。そして、...