ある日奥さんに「暴力的なゲームをプレイしても悪影響がないことは分かったけど*1,*2、暴力的な表現は良くないと思う」と言われたとき
「ゲームだから(もごもご…)」とまともに返答できませんでした。
僕自身、「人を銃で撃つゲームは好きじゃない」という思いは昔からあったので、この問題は対外的な意味だけでなく、自分自身のゲーム哲学に関わる重要な意味を持ちます。
結論としては、
『ゲームのプレイヤーが自身の価値観に注意して遊んでいる限り問題ない』
と主張して、その理由を説明していきたいと思います。
本記事では、殺人そのものの善悪を問う内容ではなく、ゲームのプレイヤーの視点で問題がどこで起こるのか、どう扱えば良いのかを考えたものであることをご了承下さい。
自分で言うのもなんですが、長すぎ!!なので、興味のある項目へジャンプしながらお読み下さい
問題はどこで起こるのか
問題の所在を明らかにする前に必要な“考え方”に触れておきます。
まず、「ビデオゲームの殺人って具体的にどういうものを指すの?」
ということですが、<ビデオゲームの美学>より
「ドラゴンクエストⅤ」のパパスの死 - 虚構世界上の出来事としての死
「スーパーマリオブラザーズ」のマリオの死 - 残機数、ゲームオーバーといった出来事が死と呼ばれるケース
「Wizardry」におけるロスト - キャラクターの消失などの出来事を虚構世界上の死として見立てるケース
<出典:松永伸司「ビデオゲームの美学」>
3通りが考えられますが、本記事で問題とするのは1.の虚構世界上の人物を殺すことです。2.や3.のケースようにゲームのキャラクターの残機数の変化、システム上の消失は本記事では問題とならないものとして扱います。
そしてもう一つ重要なこととして、プレイヤーがゲームの虚構世界をどう捉えるかにも分類があります。
自己関与:プレイヤーは自分自身が虚構世界にいることを想像し、行為の動機と行為の結果も自分自身のものだと想像する。
ミミクリ:プレイヤーは虚構世界にいる特定のキャラクターの行為の動機を想像して操作し、行為の結果も特定のキャラクターの責任だと想像する。
虚構世界を想像しない:目標を達成するためのプレイであり、プレイヤーがゲームの虚構世界を想像せずに画面の映像を単なる記号として認識し、競技、点取りゲームとして遊ぶ場合。
<出典:松永伸司「ビデオゲームの美学」>
実際にはプレイヤーはどれか一つの遊び方をするわけではなく、同じゲーム内においても3つの側面が複雑に混在しながら遊びます。1.2.の場合はキャラクターの死は現実の「死」と同じ意味を持ちますが、3.は死ではなく、コンピューターの出力した結果でしかありません。
それでは、ビデオゲームの殺人が問題となる場合を、プレイヤーと第三者の2つの場合について考えていきます。
プレイヤーに起こる問題
みなさんゲームを遊んでいて、敵を倒すときにドキッとしたことはありませんか。
ここでは映画や小説などのフィクションでよくある虚構世界の人物同士が起こす殺人ではなく、ゲームならではのプレイヤーが虚構世界に働きかけて人物を殺す場合を自分の体験をもとに説明したいと思います。
バイオハザード4
バイオハザードシリーズは僕のお気に入りのシリーズであり、主人公が銃を使ってゾンビを倒すゲームとして有名です。重要なポイントとして、本作の敵はゾンビやクリーチャーであることと、加えて、本シリーズの目的は敵を殺すことよりも、生還することにあるため自分の倫理観との衝突が起きることなく、スリルを楽しむことができます。
ところが、本シリーズで初めて衝突が起こったのが「バイオハザード4」でした。
*ネタバレが含まれるためクリックして表示して下さい*
本作の序盤では、村人が主人公に襲いかかってくるのに対して、主人公は理由が分からずに撃退しなくてはいけません。これは後に、人間ではないことがわかるのですが、初プレイでは敵を人間として認識し、銃で撃つことに抵抗を覚えました。
人間と思うとヘッドショット(頭部を撃つと大ダメージを与えられる)できないもんだな…と実感したことを覚えています。
ここで、感じる嫌悪感は、“人を撃つ”という行為に感じるものと、“撃たれた人を想像する”こと、そして“撃った結果”に感じるものに分けることができます。
“人を撃つ”という行為は、犯罪なのでそれ自体は”良くないこと”という認識を誰もが持っていると思いますが、この場合ゲームであり、おそらくここで“プレイヤーがどう遊んでいるか”によって感じ方が変わります。
「自分が人を撃つ」のか「主人公が人を撃つ」のか「対象を消す操作をする」のか
僕の場合は、自己関与的とミミクリ的が入り混じった感覚で「自分かつ主人公が人を撃つ」という感覚だったため、価値観との衝突が起こりました。しかし、虚構世界を考えない場合は、射的場で的を撃つのと同様かまたは”撃つ”という行為も想像なので、”消す”操作をしているだけであり、そこに倫理的な問題は起こりません。
さらに付け加えると、銃に対する社会的背景も関わると思います。日本では銃を所持することは違法ですが、アメリカなどの国では合法であり、銃に対する認識が違うはずです。日本人からすれば銃は犯罪の象徴かもしれませんが、アメリカ人からすれば、正義や自由の象徴かもしれません。
と言ってもアメリカ事情に詳しくないので憶測ですが…
そのため、主人公がアメリカ人のエージェントだとしても、プレイヤーが日本人であるが故に感じる抵抗があります。そういう意味では、もしアメリカ人の価値観を持つ人がミミクリ的にプレイすれば銃を使う事に対する抵抗はないかも知れませんね。
次に、“撃たれた人を想像する”という問題です。現実では、自分の言動や行動により相手がどう感じるか、結果がどうなるか想像するということを自然にやっていると思います。ゲームでは、プレイヤーが虚構世界の”その”キャラクターを想像して遊ぶかに関わりますが、ここで僕はゲームのグラフィックのリアルさが重要だと思います。このバイオ4の例ではグラフィックはリアルであり、キャラクターや風景のデザインも現実にかなり近いものに感じ当時は感動しました。ですが、リアルであればこそ、銃で撃ったときの弾丸が体を砕き貫く映像やその痛み、そして命が失われる様を想像しやすいという側面があります。
実際に銃を撃ったことも、撃たれた瞬間を見たこともないので、あくまで映画を観た経験をもとにした想像なんですが
この想像は、“撃ってから”起こるのではなく、”撃つ”という行為を決める段階で起こるので実際の”撃った結果”の表現に関わらない点もおさえておきます。
日本は過激な描写に対する規制が厳しく、本作も出血や体の損壊といった表現が控えられています。そのため、“撃った結果”については日本のゲームをプレイする分にリアルなショックを受けることは少ないのではないでしょうか。また、敵のやられ方を含めた演出が非リアル(ゲーム的)に感じられた場合、敵を人間として捉える度合いが低くなると思います。とは言っても、倒れている死体を見て、それが良心の呵責になったり次の戦いでの葛藤になったりすることは当然あるでしょう。
そういう意味でスプラトゥーンを考えた人は天才だと思いました
となります。
第三者に起こる問題
第三者とは、プレイヤーの家族であったり、世間であったり、またはゲームのプレイを隣で見ている友人であったりプレイヤーを外側から見る人たちのことを指します。
僕は、この第三者の目線がゲームの殺人というテーマにおいて非常に重要だと考えています。
例えば、敵が架空の化け物であり倒すことに倫理的な問題が生じていない場合や、FPSの対戦などで倫理観を適用する必要がない勝ち負けを競う遊びとして楽しんでいる場合(ボードゲームやスポーツと同じ)でも第三者はプレイヤーが殺しを楽しんでいると捉えることがあると思います。
また、家族はゲームのせいでプレイヤーの倫理観がおかしくなるのではと心配すること、世間はゲームのせいで犯罪が助長されると思っていること、同じゲーマーでも価値観や虚構世界の認識の違いから不快に感じることがあるといった背景があります。
僕が以前調べた結果から、暴力的なゲームのプレイが人の暴力性の変化にほとんど影響しないことを前提として、ニュースで良く見られる犯罪者の家宅捜索をした結果暴力的なゲームを持っていたケースついて考えてみます。このような場合ゲームに責任が問われることについて、ゲームに影響されて犯罪傾向が強まったのではなく、もともと暴力的な嗜好があったから過激な表現の含まれるゲームを持っていただけです。そういった人物が残虐性を楽しむ目的でゲームを遊ぶことは想像に難くないと思いますが、これはクリエイターの意図した遊び方ではないので、そもそも不適切な遊び方です。そして現実でも刃物や工具を不適切な目的に使うかもしれません。
ともあれ、暴力的な表現を含んだフィクションは、周囲の人からすれば見るのが不快だったり、プレイヤーの性格を心配する種になったりするので配慮が必要ですね。
「プレイヤーの想像力が欠如しているんじゃないの?」という声も聞かれますが、想像力がないのではなく、ゲームにおいて想像する必要がない場合があるということは重要です。
「いやいや、暴力を見たら良くないことだと思わなきゃダメだよ」という方は、確かにおっしゃる通りなんですが、それが本当に暴力であるかと、表現が用いられる理由について述べたいと思います。
そもそもなぜ暴力的な表現が用いられるか
これはリアルさの追求と人間の原始的な欲求の2つが関係しています。
ホラーゲームではプレイヤーは怖さを楽しむので、演出として過激な表現があったり、格闘ゲームでは、キャラクターの必殺技のカッコよさを演出するために、攻撃を華やかに見せるという側面はあります。しかし、ホラーゲームの演出は暴力というよりホラー映画やお化け屋敷でお馴染みの体験者をいかに怖がらせるかに焦点を当てたものです。また、格闘ゲームの場合は暴力というより魅せる格闘技としてプロレスに近いものだと思います。
ここで言う暴力を『合法性や正当性を欠いた物理的な強制力』(デジタル大辞泉)と限定して考えた場合に、そのゲームのプレイが他人(現実でも虚構世界でも)に不当に危害を加えることと関係がないなら暴力ではないでしょう。
暴力というより、リアルな表現が用いられる理由としては、リアルなものを描きたい・見たいという根本的な欲求があり、そこに芸術としてのゲームの課題があります。
戦争(例.call of duty)、現代社会の不法地帯(例.龍が如く)、精神描写(例.アリスインナイトメア)のリアルな一面から、プレイヤーはリアルな気づき、葛藤を見いだし、内面の豊かさにつながることもあるはずです。現実にそういうものがないわけではなく、自分と関係ないため見えていないか、もしくは見えないように目隠しされている世界を描くことは価値のあることのように思います。
それに対して、人間の原始的な欲求があります。
~読み飛ばしてOK ~
人間は社会心理学的に狩猟採集時代の本能に従っており、戦う、縄張りを広げることで繁栄してきました。好戦的な者、好奇心旺盛な者が領土を広げ子孫を残すことに成功してきたのでその性格が選択的に強化されてきたというわけです。現代社会においても戦争や大量虐殺を引き起してきました。
<参考書籍:サピエンス全史>
人間には戦うことと勝つことに対する欲求があり(いわゆる闘争本能)、それがスポーツや遊戯として形を変えて存在していますが、よりリアルなもの(血生臭さ)を求めることも無理がないのかもしれません。
「だったら正当化して良いの?」と言えばそうではなく、もし自分の価値観と照らし合わせて問題がある場合
というときには、やらない方がよいでしょう。
価値観と衝突する時点で言われなくてもやらないと思いますが。
また、ヒットしているからという理由で同様のフィクションを扱ったソフトを開発する場合も大いにあると思いますが(だって商業ですし)、手段が先で目的が後に逆転してしまっているのでその表現に本当に意義があるのかは注意する必要があるでしょう。
プレイヤーはどう遊ぶか
それではプレイヤーはどう遊べば良いのか、僕なりの提案をさせていただきます。
[問題がどこで起こるのか]で述べた通り、ゲームの殺人が問題となるかはプレイヤーの認識の仕方によって異なります。そのため、このソフトなら大丈夫といったことは一概に言えないので、プレイヤー自身が自分はどんな表現が大丈夫なのか、そうじゃないのかといった価値観に意識的になることが大切です。そして、自分の価値観と衝突が起こったときに、ゲームや他人の意見に合わせて自分の価値観を曲げるのではなく、感じたことを意識して自身のプレイスタイルを見出すことが重要ではないでしょうか。その上で、クリエイターがその葛藤も重要だと考えて作ったのなら、自分のありのままの価値観で遊ぶ意義はあるのだと思います。また、自分のやるゲームソフトを選ぶときには、公式ホームページ(HP)があるでしょうから、どんな内容なのか、クリエイターが何を伝えたいか、どう遊んでほしいかキャッチコピーやプロモーションビデオから確認すると良いでしょう
最近はHPも凝っていてデザインがオシャレで映像もありのいい時代になったもんですね。
そしてCEROによる倫理審査も参考にして、対象年齢が高い場合は注意してみると良いと思います。
最後に自分の価値観を大切にした甲斐があった経験を2つのソフトを挙げて紹介したいと思います。*ネタバレが含まれます*
ヴァルキリープロファイル 咎を背負う者
本作は難易度が高く、女神の羽を使わず攻略することは一筋縄ではいきませんが、
「仲間を犠牲にするなんて絶対にお断り!!」
と、断固としてそのアイテムを使用せずに攻略したところ、犠牲者0人用のルートが用意されており、攻略の喜びに加えて自分の選択が「正しかった」と肯定されたような感動を味わったことを覚えています。
ダークソウル3
本シリーズは鬼畜ゲーとして有名ですが、特徴として、敵以外のキャラクターを殺害することができます。キャラクターによっては復活しますが、
「攻撃することさえ、自分の主義に反する!」
ということで一切、非道を働いていません。ゲームの世界の話ですが、虚構世界も含めて自分のポリシーを守るというのは気持ちが良いものです。
そして、本作もマルチエンディングであり、とった行動がエンディングに反映されるので自分らしいエンディングを迎えられたという満足感があります。これ絶対クリエイターがプレイヤーを悩ませるように絶妙に演出していると思います